働くって何?一生困らないお金がもらえたら仕事を続けますか、やめますか?
大学就職率や就職内定率が過去最高水準で推移し、売り手市場といわれています。しかし、一方で入社3年以内で退職する若手社員の早期離職率の高さが指摘され、社会全般では過労死、ブラック企業、パワハラなど、仕事に関するネガティブな言葉も目立ちます。 こんな現代社会だからこそ、わたしたちはなぜ「働く」のか。「仕事」とは何なのか。「働く」ということについて考えてみませんか。「哲学対話」が専門の小川泰治さん(宇部工業高等専門学校講師)が執筆します。
五月病。4月に始まった新年度も1カ月が経ち、GWの休みを終えて、新たに職場に復帰しだしたこの時期、どうしても気分が沈みがちになったり、出勤自体がとても億劫に思えてしまいます。特に新入社員のなかには、思い描いていた社会人生活とのギャップに苦しんでいる人もいるかもしれません。そんな時期にあえてみなさんに伺ってみたいことがあります。 「一生十分食べていくに困らないだけのお金をもらえるとしたら、あなたは仕事を続けますか? やめますか?」 どうでしょうか。私は今年から高専(高等専門学校の略、 主に技術者を目指す学生を対象とした5年間の教育課程)で哲学を教え始めた教員ですが、私だったら、ありがたいことにいただいたこのお仕事をすぐにやめて、家でのんびりと好きな本を読み、プロ野球と将棋の観戦に励み、妻とのんびりとした時間を過ごすことを選ぶかもしれません。 この問いは、私が学校や地域で行っている「哲学対話」という取り組みの場で、「働くこと」について考えるためのちょっとした導入代わりにたずねることがあるものです。「哲学対話」について知らない方がほとんどだと思いますので、問いそのものについて考えるのは少し後回しにして、まずは「哲学対話」について説明をさせてください。
自分のなかのわからなさに気づく哲学対話
「哲学対話」とはふだんは通り過ぎてしまうような疑問をめぐり、複数の人たちで集まり、じっくり、ゆっくりと探究を進める活動です。古くは古代ギリシアのソクラテスの時代から哲学は対話的な活動とともにありました。 近年になり、改めてこの対話により哲学するという活動が、専門的な哲学研究者のみならず、学校や市井(しせい)の人たちのなかで注目されるようになってきました。私自身も実際に日々の高専での授業のなかで学生たちと車座になって、「なぜ人は恋をするのか」、「みんな全然違うのに、わかりあえるのか」、「校則はなぜ身だしなみに厳しいのか」といった問いについて対話を行っています。 それ以外にもこれまで小学校や中学校、地域の公民館で子どもたちやその保護者の方たちと対話をしたり、街のカフェで初対面の大人の方たちと対話をしたり、はたまたweb上の生放送番組(*1)で視聴者の方たちとコメント欄で対話をする、といった取り組みも行ってきました。 哲学対話の場では必ずしも過去の哲学者についての知識や哲学上の難解な概念は必要ではなく、むしろ自分自身の率直な感じ方や疑問、わからなさをもとに、互いに問いかけながら考えを重ね合わせていくことが大切です。対話のゴールは、その場の目的によって違いますが、必ずしも一つの答えを時間内に出すことは目指しません。それよりも、対話に参加しているそれぞれの人たちが、対話をする以前には当たり前だと思って疑ってすらいなかった「前提」に気づき、その「前提」がゆらぐことを歓迎します。 対話を進めていくと、今まで自分がわかっていたつもりのことについて、「実は自分はよくわかっていなかったのだ」ということがよくわかってきます。こういった自分のなかで意識せずに「前提」としてしまっていて、本当はわかっていなかったということに気づくという経験は、決して後ろ向きなことではありません。むしろこうした経験は今まで固執していた物の見方から自分を解放するような前向きな体験になると思っています。 たとえその場で「答え」が出なかったとしても、対話をすることによって、今の自分の生き方や考え方が絶対的なものではないこと、もっと別の生き方、あり方、考え方があることに気づくことができるかもしれません。 必ずしも「働くこと」についての専門家ではない私ですが、この哲学対話という取り組みの経験から、以下では「働くこと」について考えてみます。 (*1)