働くって何?一生困らないお金がもらえたら仕事を続けますか、やめますか?
働くことをめぐる「呪い」から自由になるために
私が「仕事とはお金を稼ぐためのものだ」、あるいは「仕事には特別なやりがいがある」という前提に強く思い至ったのは、この記事の冒頭で少し触れたインターネット上の生放送番組で「楽しく仕事ができるとはどういうことか?」という問いについて視聴者のみなさんと一緒に考えたときです(*2) 。 そこでは話が進んでいくなかで、働くうえでの楽しさは、「ある程度の苦しさを乗り越えた先にある充実感だ」と多くの人が考えていることが見えてきました。またさらに話が進んでいくうちに、「仕事における楽しさというものは、やはりそこで得られる報酬と切っても切り離せない」という考えも多くの方に共通していることもわかりました。それは、私のように、基本的には苦しい思いをして働くのが嫌で、お金があればなるべく家でごろごろしていたいと思う一方で、自分の専門の仕事は必ずしも給料が高くなくともやめたいとは思わない人間にとっては意外なものでした。 ここで見えてきた、「仕事はすばらしい価値があるものだから、多少苦しくともがんばるものだ」や「お金を稼ぐためにするものこそが仕事なんだ」といった前提は、それとしての主張の正しさは別にしても、私たち自身のなかに問われることも意識化されることもなく、ひそんでいます。もちろん、そういった前提が意識されなくとも、「楽しく」仕事ができているうちは、わざわざ考え直す必要もないでしょうし、哲学対話をしてもピンとこないかもしれません。 ですが、五月病に苦しむ人にとっては、こういった前提こそが、いわば「呪い」となってしまい、働くことに充実感を感じられない自分自身に重くのしかかることもあります。本稿で長々と時間をかけて言いたかったのは、こういった前提あるいは呪いは、絶対的なものでもなんでもない、ということです。それは問うて、疑って、考えてみることができる、相対的なものなのです。 「仕事には仕事でしか得られない価値や達成感がある。(だから苦しくてもがんばらなきゃいけないし、がんばれない自分はだめなんだ)」という考えは、あなたが無理によって立つところとして生きなければならないほど絶対的なものではなく、むしろその正しさをあなた自身で問い直すことができるものです。 一人で考えるのが難しければ、だれかと一緒に対話をしてみましょう。自分ではどうしても解くことができないと思っていた思考のなかの「呪い」は、案外なんでもない「わかったつもり」のことのうちの一つにすぎないかもしれません。哲学は働くあなたを少しだけ自由にしてくれるはずです。 (*2) ---------- ■小川 泰治 宇部工業高等専門学校一般科(文系)講師。NPO法人こども哲学・おとな哲学アーダコーダ事務局。専門は哲学・倫理学。特に、「哲学対話」「子どもの哲学」と呼ばれる実践を、学校の教室や地域で重ねている。分担執筆に『こころのナゾとき 小学1・2年/ 小学3・4年/ 小学5・6年』(成美堂出版、2016年)など。子どもの哲学についての論文に『「子どもの哲学」における対等な尊重』(『フィロソフィア』、2017年)、『「子どもの哲学」における知的安全性と真理の探究 ― 何を言ってもよい場はいかにして可能か』(『現代生命哲学研究』、2017年)がある。