働くって何?一生困らないお金がもらえたら仕事を続けますか、やめますか?
働くのを続ける人 やめる人 それぞれの理由を考えてみる
さきほどの問いかけは「一生十分食べていくに困らないだけのお金をもらえるとしたら、あなたは仕事を続けますか? やめますか?」というものでした。 「続ける」と「やめる」、それぞれの立場に立って、その理由を考えてみます。(「なぜ?」と問うのは哲学対話の基本です。) 続ける派に立つ人は、「続けます。なぜなら仕事は必ずしもお金のためだけにやっているのではないから」、「続けます。働くことで得られる達成感や充実感はお金では代えられないものだから」と答えるかもしれません。 他方、やめる派は、「もちろんやめます。だって、お金があるならわざわざ苦しい思いをして働く必要はないから」、「やめる。働くことの価値はお金じゃない、なんてきれいごとだから。結局人生お金なんだ」と答えるかもしれません。 もっと思慮深い人は、「家族との時間をとりたいから仕事の量は減らす。けれど、今は仕事の内容には不満がないし、充実しているから、やめはしない」とバランスをとるかもしれませんし、「そもそもこの二択がナンセンス。仕事にもいろいろあるし、こんな大雑把な設定じゃ一概に答えられないよ」という方(全くその通りです)もいるかもしれませんね。 さて、改めて、あなたはこの問いにどう答えるでしょうか。 (問いにどう答えるかも、その人が何を大切に生きているかが透けて見えて興味深いので、是非みなさんもこれをきっかけに周りの方と対話をしてみてください。) ですが、今ここで注目したいのは、どちらの答えを選ぶか、ではなくて、それぞれの答え方や理由の背後には、どんな「前提」があるだろうか、ということです。
「仕事とはお金を稼ぐためのものだ」という「前提」
お金が別の手段で手に入るなら仕事をやめる人は、「仕事とは日々の生活のためのお金を稼ぐものだ」という前提をもっているように見えます。きっとそう考える人にとっては、仕事以外にやりたいことがあり、生きていくうえで充実感を多く得られるのはそちらのほうなのでしょう。もちろん、そういった割り切りは十分にありえますし、そのことが当人のなかでよく自覚されていれば問題はないかもしれません。 そもそも、当たり前すぎて忘れがちですが、いったん社会人になると大半の人は人生の大部分を「働く」ことに費やします。そして働かない時間を「休日」や「余暇」と呼ぶことがふつうです。あくまで働いている時間をメインの活動として考えて、それを終えて、余った時間を、友人や家族、恋人との時間や一人での趣味の活動など「本当に自分のやりたいこと」に充てています。 実際に費やしている時間の面でも、私たちの言葉の使い方の面でも、(お金が別の手段で手に入るなら仕事をやめる人にとっては)ただお金を稼ぐための活動が主となり、「本当に自分のやりたいこと」が従となっている。このことは、お金がないと生きていけない以上、仕方ないとはいえ、どうにも奇妙なことのように私には思えてしまいます。