身体を“アクティベート”する演劇的な鑑賞体験。ウラ・フォン・ブランデンブルクの個展「Chorsingspiel」がエスパス ルイ・ヴィトン大阪で開幕
絵巻物のようなスパイラルに迷い込む
もうひとつの作品《Chorspiel》でも、映像にたどり着くまでに垂れ幕によって作られた通路が用意される。直線的に垂れ幕が配置されていた《Singspiel》とは対照的に、本作では長さ78mの布が渦を巻く。垂れ幕のあいだをぐるぐると進んで行くと、迷宮に入り込んでいくかのような感覚がもたらされる。 《Chorspiel》もひとつのシークエンスショットで構成されており、撮影はスウェーデンの森で行われた。ラインパウダーで一区画を白く塗りつぶすことで森の中に即席のステージを作り出すなど、より演劇的な演出が取り入れられている。こちらの作品でも映像に映し出されるのは、ある家族の姿だ。両親、娘、祖母と思しき男女のもとへ異国から男がやってきて、家族の関係性のダイナミズムを揺さぶっていく。絡み合った紐の玉をほどこうと格闘していた娘の様子は、男との出会いで変化する。渦巻き状の垂れ幕に描かれいてる海や山などの景色は、男が森に辿り着くまでに見た景色を表していて、さながら巨大な絵巻物のようでもある。 ここでもセリフの代わりに歌が用いられるが、本作では作家による歌ではなく、男女の混成による合唱が状況を説明し、登場人物の内面を表現する。これはギリシャ演劇で場面の状況を説明したり、進行の助けとなるような役割を担ったコロス(合唱隊)をイメージしたものだ。さらに、映像のオープニングでは絵画のような構図で画面の中に登場人物が配置されるが、この演出には活人画の要素が取り入れられている。
観客の身体がアクティベートされ、作品の一部になる
作家は、両作は「家族」と「無意識」を扱っている点で共通していると語っている。観客はどちらの作品でも映像を鑑賞する前に、舞台セットのように演出された垂れ幕の構造物に迷い込むことになるが、ただ映像作品を見せるのではなくこうした演出を用いるのは、観客の身体を“アクティベート”し、「作品」と「作品を見ること」を分離させずに一体化させたいという作家の想いがある。 さらに特徴的なのは、両作とも映像作品のテキストが作家の「自動手記」によって執筆されていることだ。シュルレアリストたちが取り入れたオートマティズムのように、自らの意識の外側において文章を書くという手法で書かれたのだそうだ。文章がかならずしも意味を成していなかったり、要素が欠けていて行間を読むことを求められるという点で、「俳句にも似ている」と作家は語る。 会場には、《Singspiel》で使われた垂れ幕のデザインのためのドローイングも展示されているが、映像、演劇、平面作品、彫刻など多様な表現手法を用いるフォン・ブランデンブルグは、自身の作品を「総合美術(Gesamtkunstwerk)」ととらえ、ひとつのジャンルにとらわれず、複数な要素を融合させることを好んでいるのだという。 最後に作家は、「私は時間やストーリー、俳優、彼らの動きなどのすべてを考えるのが好きです。映像作品はそれらをすべて結びつけるのに最適なメディアです。そして私の全部の展覧会において、観客がアクティベートされること、作品の一部になることがとても重要なのです」と観客の身体に働きかけることの重要性を強調した。ギャラリーに出現した舞台装置のなかに迷い込み、フォン・ブランデンブルグの作り出す作品世界に身体を委ねてみてはいかがだろうか。
Minami Goto