「そこら中に遺体が転がっていた」津波に飲まれて生還した写真家が行き着いた“ルール度外視”の防災マインド
東日本大震災で津波に飲み込まれ、奇跡的に生還した写真家・高橋智裕さん。だが、自身の経験は「大したことはない」という。
なぜなら、その後に見た光景やほかの被災者が語る経験談が凄まじいからだ。今回は、被災地を取材してきた高橋さんならではの“防災意識”について耳を傾けたい。 ※当時の実際の写真を使用してます。
見えるものすべてがセピア色になった
震災当時、高橋さんはいわき市でタウン誌のカメラマンとして働いていた。津波からかろうじて生還したにも関わらず、翌朝には被害状況を取材するため、ひとりカメラを持って被災地へと向かった。 「いわき市でいちばん大きな海水浴場『薄磯』に行きました。ここはもともと、美空ひばりの名曲『みだれ髪』の舞台としても知られる風光明媚な街です。自宅のある市街地から車を走らせ、山を越え、やっと街や海が見えてきた……と思ったその瞬間、すべての色がなくなりました。街全体がセピア色に見えたんです」(高橋智裕さん、以下同)。 薄磯は、市内で最も大きな被害を受けたエリアだと言われている。前日に何度も津波に襲われた街は、家屋が流され、瓦礫や泥が散乱し、まるで焼け野原のようになっていた。 「これって現実なのかなって思いました。だって、そこら中に遺体が転がっているんです。毛布に包まれたものもあれば、そのままのご遺体もあって……。 年配の男性が小さい子をおんぶしたまま砂だらけで亡くなっていたり、高齢の女性が孫を抱きかかえたまま亡くなっていたりしたのを見ました。そういった光景が続くので、自分の目にはもうずっと世界がセピア色だった。たぶん、あの状況を頭で処理できてなかったんじゃないかな」。
この悲惨な状況を一刻も早くメディアで取り上げてもらおうと、取材後は職場の事務所へ向かった。が、上司との意見の食い違いから、その場で退職を決め、勤め先をあとにした。 「当時、いわき市の状況はメディアであまり報道されていなかった。というのも、ガソリンが思うように手に入らない状況で、県外から海沿いまで取材に来るのはリスクが高い。それに道路も寸断されていましたから。 さらに原発事故で避難勧告も出ていて、市内のメディア関係者たちもほとんどいなくなっていたんです。自分が発信しないと、この状況をわかってもらえないと思いました」。 そうして高橋さんは県内外のラジオ局やテレビ局に写真を提供したり、電話出演をしたり、いわき市の現状を伝えるために奔走した。