小説家・吉村昭「最も気持が安まるのは書斎」遺言通りに、骨壺は書斎に置いて。妻・津村節子の家には、今も夫婦の歯ブラシ2本が並ぶ
◆念願だった家を壊す時 賃貸のアパート暮らしから、ようやく築いた終の棲家だった。家に関心がなかった吉村でさえ、〈もう金のことは心配なくなった。あとは家の新築だ。あせらずすばらしいのを造ろうじゃないか。〉と心臓移植の取材で訪れた南アフリカのケープタウンから手紙を書いている。 家賃が払えず、郊外へと転居を繰り返していた頃の心境を津村は綴っていた。 〈育子は、近くに民家や商店のある町なかに住みたい、そしていつか自分の家を持ちたいと切実に願った。誰も降りて来ない終電が通り過ぎた駅の淋しさと、鰊(にしん)が来なくなりゴーストタウンのようになった根室半島の花咲港の、千島列島が見えるさい果ての海の色は、長く長く育子の胸に残った。〉(「声」『遍路みち』所収 講談社文庫) 新婚当時、行商で訪れた「さい果て」の光景は、津村の心に深く刻まれたものだった。そこから二人で死に物狂いの精進を重ね、念願かなって手に入れた家を壊すというのだった。 〈離れの夫の書斎だけを残し、38年間住んでいた家を建て替えるにあたってどれほど物を捨てたかわからない。(略) 思い出多い家財道具がつぎつぎに粗大ゴミとして運び出されて行く時は、さすがに胸が詰った。〉(『夫婦の散歩道』河出文庫) 家を壊すところを見るんじゃないよ、と司に言われた。長女一家との二世帯住宅が完成するまで、津村は3LDKのマンションで半年間暮らした。
◆家の近くの曲がり角に吉村の姿を見て 越後湯沢のマンションは、子供たちの家族が冬のスキーや夏休みなどに行くのを楽しみにしているので売るわけにいかない。そこには吉村の気配が濃厚に漂っていた。一人で泊まることができないので、司の車で向かった。 そうして吉村の亡きあとも、そこかしこに気配を感じていると、奇妙なことが起こった。 家の近くの曲り角に、吉村が立っていたのだ。初めて見たのは亡くなった年の歳末の夕闇だった。 〈秋が深まって公園の落葉が厚く散り敷かれるようになると、夕闇が濃くなる頃、家の近くの道の曲り角に夫の姿が現れる。この情景を短篇小説の中に書いたことがあるが、今の季節は、もっともよく見える。〉(同) 没後5年の瀬戸内との対談でも、津村は語っている。 〈あのね、まだ吉村の姿を見るときがあるの。今の季節はダメだけど、木枯らしが吹き始めてから、春先くらいまでの、いわゆる黄昏どきに、家のそばの電柱に、お気に入りのチャコールグレーのトレーナーを着た吉村が立っているのね。(略)私が眼を悪くしたとき、帰り道で私が転ばないか、心配した吉村がいつもそこに立ってたんだけど、その姿が今も見えるのよ。〉(「文藝春秋」平成23年9月号)