小説家・吉村昭「最も気持が安まるのは書斎」遺言通りに、骨壺は書斎に置いて。妻・津村節子の家には、今も夫婦の歯ブラシ2本が並ぶ
◆残された妻としての気持ち 思い出すのは、ベッドの傍らに蒲団を敷いて寝た最後の一週間だった。 亡くなった翌年の、瀬戸内寂聴と大河内昭爾との「友として、夫として、そして作家として」と題した吉村の追悼鼎談で、津村は吐露している。 〈吉村が亡くなってから家じゅう、町じゅう、思い出すことばかりで、もうこの家も要らないし、吉祥寺の町も嫌になってしまい、私のことも吉村のことも誰も知らないどこかの町へ行って、そこにマンションでも借りて住もうかなと思ったのです。〉(「小説新潮」平成19年4月号) そう願っても、家には弔問客が途切れず訪れていた。吉村の未発表作品を刊行するため、編集者の出入りもあった。作品のゆかりの地での回顧展の対応など、吉村に関する様々な仕事に追われた。とても家を離れて逃避するわけにはいかなかった。 人の出入りの多い家では泣くこともできず、津村は井の頭公園のはずれの、周囲に人家がないところで声を限りに泣いた。 自伝的小説でも次のように記す。 〈育子は50年も連れ添った夫が死を覚悟したことさえ察せずに、夫と最後の会話を交わすことはなかった。(略) 仕事を優先させている妻をかたわらに、夫は凍るような孤独を抱いて死んだに違いない。人々は、あれほどの力作を数多く書き遺した満足感があっただろう、と言う。しかし、霊界を信じない夫が闇の世界へ一人で旅立って行く時、この世に残した仕事に対する満足感など思い浮ぶ筈はない。〉(「声」『遍路みち』所収 講談社文庫)
◆家ではなく書斎に帰りたがった吉村 遍路に出たいと思いながら、実現したのは吉村の死去から4ヶ月後の11月だった。3泊4日の日程を捻出し、タクシーで徳島県の1番札所の霊山寺(りょうぜんじ)から高知県の29番札所の国分寺までまわった。 遺骨は一年間家に置いてほしいと、遺言にあった。それに従って家の祭壇に置いていたところ、司が次の一文に気づいた。 〈私にとって最も気持が安まるのは書斎で、死んだ折には机の上に骨壺を納骨時までのせておいて欲しい、と家人に言ってある。〉(『私の好きな悪い癖』講談社文庫) 地方の取材先から、吉村が早く帰りたいと思ったのは、家ではなく書斎だった。遺骨は書斎の机に移し、すぐにでも書けるように原稿用紙とペンを置いた。 一周忌には親族で越後湯沢の墓所に納骨を済ませた。それを待って、津村は吉村との思い出の家を建て替えた。 〈家を壊したいということは、夫が刻々と迫る死の時を見極め、目の前で点滴を引きぬいて死を迎えた病室を壊したいということが第一であった。〉(「声」『遍路みち』所収 講談社文庫)