「9日間の英国女王」 10代の少女が迫られた政略結婚と処刑、レディ・ジェーン・グレイ
歓びを見せる者も、「女王陛下万歳」と叫ぶ者もいなかった
これは歴史を題材にしたコメディなのか。それとも、王室の甘いメロドラマなのか。ドラマシリーズ「マイ・レディ・ジェーン」はその両方と言えるだろう(編注:アマゾンの「プライム・ビデオ」で配信、シーズン1で打ち切り)。 ギャラリー:「9日間の英国女王」 10代の少女が迫られた政略結婚と処刑 画像4点 大胆に歴史を改変したドラマの題材となったのは、イングランドの女王にわずか1週間ちょっと君臨し、17歳(16歳とも)で処刑されたレディ・ジェーン・グレイだ。 レディ・ジェーンとは何者なのか。そして、その不運な治世の物語が今も反響を呼んでいるのはなぜなのか。ここでは、1553年にいかにして10代の少女が女王になり、数日で王位を失うことになったのかを追っていこう。
激しい後継者争い
1547年、国王ヘンリー8世が死去した。それを受けて、息子のエドワード6世がわずか9歳で即位したが、彼が成人するまでの間は、摂政評議会が政治を行うことになった。 ヘンリーの姪であるジェーン・グレイは、いとこのエドワードと同い年。生まれたときの王位継承順位は第4位だったが、エドワードが王位についたことで、ヘンリーの娘(エドワードの異母姉)であるメアリーとエリザベスに次ぐ第3位となった。 エドワードは病弱で従順だったので、彼に対する影響力をめぐり、評議会内の争いが激化した。エドワードとジェーンが10代半ばに近づくころ、一番の実権をにぎっていたのはノーサンバーランド公爵であるジョン・ダドリーだった。 王がもっとも信頼するアドバイザーであるダドリーは、イングランドで一番強い権力を持つ人物だったはずだ。そのダドリーは、ジェーンの義父となる。 ジェーン・グレイは、当時の若い女性としてはめずらしく、高い教養を身につけていた。複数言語を操るばかりか、学業にも家事にも能力を発揮し、しかも敬虔で勤勉、そして魅力的でもあった。そんな彼女でも、自分の未来を選ぶことはできなかった。この時代の貴族の娘なら誰でもそうであるように、一族に権力と名声をもたらす政略結婚が待っていた。 両親の奔走により、ジェーンはノーサンバーランド公爵の息子であるギルフォード・ダドリーと結婚した。1553年、ジェーンが16歳のときだった。諸説あるが、ジェーンはこの結婚を断りたかったようだ。父親がジェーンをなぐって結婚を同意させたとする話もある。 そのころ、国王エドワードは重病を患っていた。王の死が迫るにつれ、ノーサンバーランド公爵の懸念が膨らんだ。カトリック教徒であるメアリーが王位に就けば、(カトリックから独立した)イングランド国教会の権威が失墜することになる。また、メアリーにしろ、エリザベスにしろ、他国の人と結婚すれば、イングランドの王権が揺るぐことになるだろう。 そこでノーサンバーランド公爵はエドワードを説得し、ふたりを王位継承者から外し、義理の娘となったジェーンを第1位に押し上げた。 この措置の合法性をめぐって論争が起きたものの、ジェーンはエドワードの後継者となった。そして1553年7月6日に国王が死去すると、ジェーンが女王となった。