「9日間の英国女王」 10代の少女が迫られた政略結婚と処刑、レディ・ジェーン・グレイ
「自分に務まらない」
若いジェーンにとって、これは青天の霹靂だった。この措置について、事前には知らされていなかったようだ。のちにジェーンが記した内容によると、人々がひざまずいて臣従を誓っているとき、「自分には務まらない」「たいへん嘆き悲しんでいる」と言ったそうだ。 ジェーンは茫然(ぼうぜん)としたまま、王族が正式な戴冠の前に滞在するロンドン塔に向かう準備をした。そして7月10日、王室用の船でロンドン塔に向かった。 神聖ローマ皇帝の大使ジャン・シャイフェは、このときのことを、次のような不吉な言葉で書き残している。「わずかな歓びを見せる者も、『女王陛下万歳』と叫ぶ者もいなかった」
「脱ぐほうがずっと気が楽です」
新女王は、この即位に強い不安を感じていたようだ。説得されて、やっとのことで王冠をかぶった。結婚を通じて権力を得ようとする公爵に恐怖を感じていたのだろう。ジェーンは、ギルフォードが議会の承認なしに「配偶者たる王」になることを拒絶した。予想どおり、これは公爵を激怒させることになった。 メアリーは間髪を入れず、ジェーンを追放するための軍隊をロンドンに送った。当初、公爵も軍隊を組織しようとしたが、ジェーンの王室評議会はすぐに解散し、女王とその支持者は実質的な囚人としてロンドン塔に残されることになった。その間に、ロンドン市長はメアリーこそ女王であると宣言した。 最終的にジェーンの父親が塔にやってきて、「王衣を脱がねばならない」と告げた。ジェーンはこう答えたという。「着るときよりも、脱ぐときのほうがずっと気が楽です」 ロンドン塔で即位を宣言してから、1553年7月19日に放棄するまで、わずか9日間。しかし、簡単に王位を手放したにもかかわらず、ジェーンには死の刻印が押されていた。 メアリーは王位に就くべく、意気揚々とロンドンに向かった。ノーサンバーランド公爵はかろうじてロンドンを脱出したが、結局はギルフォードやほかの息子とともに塔に連れ戻された。メアリーの慈悲にすがろうと、急ぎカトリックに改宗したが、その甲斐もなく、反逆罪で早々に斬首された。 ジェーンは獄中からメアリーに手紙を書き、即位に至るまでの経緯を説明し、王位を奪った謝罪とともに、命だけは助けてもらえるように懇願した。自分は野心的な親と義理の親のゲームに巻きこまれた駒にすぎないとし、王位に就かされたことで「どれほど仰天して困惑したか」を訴えた。