「カントがニュートン」なら、「ニーチェはアインシュタイン」?…認識論と存在論のパラダイムを本当に転倒させた哲学者はどちらだったのか
ヨーロッパ哲学の最大の難問=認識論の謎を解明した20世紀哲学の最高峰といわれるフッサール現象学は難解で知られるが、じつは「知識ゼロ」の人ほど正しい理解にたどりつきやすいかもしれない。なぜなら、フッサール現象学が難解とされてきた理由は、フッサールのテキストが難解ゆえに、誤解と無理解にさらされてきたからだ。 【画像】「予備知識ゼロ」のほうが有利!フッサール現象学を誰でも理解できる方法 しかし、その本質を「適切に」追いつめれば、じつはフッサールの根本構図はきわめてシンプルだ。誤解にまみれた先入見がなければ誰でも把握できる。 現象学の根本方法は、フッサールの主著『イデーン』の解読と正しい理解なしには把握できない。 このたび、哲学者の竹田青嗣氏と、早稲田大学商学学術院教授の荒井訓氏が、現象学のエッセンスを一般読者が理解できるように可能なすべての努力を払った『超解読!はじめてのフッサール『イデーン』』が刊行された。現象学の予備知識ゼロの人、あるいは現象学に挫折した人は、本書を読めば現象学のエッセンスを最短距離で、正しく理解できるだろう。 この本が、まず読者に伝えるのは、フッサール現象学が解明しようとした「認識論」の正しい理解である。 (本記事は、竹田青嗣+荒井訓『超解読!はじめてのフッサール『イデーン』』(12月26日)から抜粋・編集したものです。)
「善悪」の認識は人それぞれ?
フッサール現象学による認識論の根本的解明の具体的方法を確認する前に、読者に知っておいてほしいことがある。 ヨーロッパ認識論は、近代哲学では「主観─客観」の一致があるかないかという問題の形をとって、普遍認識の可能性を問うてきた。(参照記事「「予備知識ゼロ」のほうが有利!…これまで無理解と誤解にさらされてきた難解な「フッサール現象学」を「誰でも理解できる方法」」) 現代哲学ではそれは言語論の形式をとって議論される。つまり、認識と言語の一致、あるいは言語と意味の一致があるか否かという問いの形をとる。 懐疑論─相対主義は、つねに普遍認識の可能性に対して否定の立場をとってきたが、その根本的な論拠となるのが、「ゴルギアス・テーゼ」(編集部注・普遍認識はそもそも不可能であるという懐疑論(=相対主義)を主張した代表的なソフィストの一人、ゴルギアスがおいた次の三つの論証を、筆者はこう呼ぶ。1. 存在はない。なぜなら誰も存在を証明できないから。2. 仮に存在があるとしても、誰も認識できない。3. 仮に存在の認識があるとしても、誰もそれを正しく言葉にできない。) における「存在≠認識≠言語」という不可能性の構図だった。 さて、ところで、普遍認識の可能性がまったくなければ一体どうなるのか。 一致がなければおよそ普遍認識は存在せず、すべての認識は相対的なものとなる。そのことの帰結は重大であり、自然科学の客観性も疑わしいものとなるだけでなく、なにより、人間社会における「善悪」や「正義・不正義」についてもその普遍的な基準をまったく示せないことになる。 さらに重要なのは、どんな認識も、結局はひとそれぞれ、あるいは観点次第であるとする相対主義の主張は、これを追いつめるなら、善悪・不正義を決めるのは、結局、力の論理、だけである、という結論を導くということだ。 そうであるとすれば、認識についての懐疑論=相対主義は哲学の意義を根本的に脅かすものとなる。それゆえ、プラトン、アリストテレス、カント、ヘーゲルといったヨーロッパの優れた哲学者たちは、それぞれの仕方でゴルギアスの難問を論駁しようと試みてきたが、しかしまた例外なく挫折してきた。この「存在≠認識≠言語」の構図は、論理的には、論駁不可能だからである。
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