「カントがニュートン」なら、「ニーチェはアインシュタイン」?…認識論と存在論のパラダイムを本当に転倒させた哲学者はどちらだったのか
ニーチェの「本質論の解体」
しかし近代哲学の最後にきて、われわれは、フッサールの前に、ゴルギアス・テーゼを決定的に破砕する哲学者をもつことになる。 それがニーチェである。 フッサール現象学の根本構図を確認する前に、われわれはニーチェの「本体論の解体」について見ておかねばならない。 現代思想では、ニーチェはその「遠近法」の概念によって、普遍認識を否定する懐疑論─相対主義の後ろ楯と見なされている。 しかしこれも大きな歪曲であって、それについては『欲望論』第一巻(講談社)ほかでくわしく論じたが、ここでもその要点を述べておく必要がある。 ニーチェは、ヨーロッパで長く続いたキリスト教の理想とその精神を厳しく批判して、近代の実存哲学の大きな達成を示したが、もう一つの重要な業績はその認識論と存在論にある。ひとことで、ニーチェは、それまでのヨーロッパの認識論と存在論の基本のパラダイムを革命的に「転倒」したのである。 カントは自分の認識論を、コペルニクス的転回と呼んだが、私の見るところでは、ニーチェの認識論と存在論の「転回」のほうが、はるかに根本的な転回である。それは宇宙論でいえば、カントがニュートンならニーチェはアインシュタインに近いのである。 ここでそれを詳細に論じることはできないが、やはり大きな輪郭だけは示そう。
「物自体」、「世界自体」というものは存在しない
ニーチェの認識論の「転回」のキーワードは、「力への意志」あるいは「力相関性」という言葉で示すことができる。またニーチェの存在論の「転回」のキーワードは、「生成」が「存在」に先行する、である(すべて『権力への意志』)。 まず「力への意志」あるいは「力相関性」(これは竹田によるキーワード)とは何か。 伝統的な認識論の構図は、まず「客観」が存在しそれを「主観」(=認識)が「正しく」認識できるか否か、というものだった。カントのよく知られた「物自体」という概念は、人間の認識は神のように「全知」ではないから、客観それ自体、つまり世界それ自体(「物自体」)を正しく認識することは不可能である、ということを意味する。 これに対して、ニーチェは彼らしい言い方でこう主張する。 そもそも「物自体」、「世界それ自体」というものは存在しない。「物自体」の概念は、神の全知ならば「物自体」を認識できるが、人間にはそれは不可能だ、ということを意味している。 ゴルギアスは「仮に物自体というものが存在するとしても、それを正しく認識することはできない」と主張したのだが、ニーチェはさらにその先まで進んでこう言っている。仮に「物自体」というものがあるとしても、それはそもそも「認識の対象」ではありえない、と。 どういうことか。 そもそも何かが「存在」するとはある主体にとって何かが認識されるということだ。 何かが認識されるとは、何らかの対象の諸「性質」(重さ、熱さ、色合い、運動など)が認識(感知)されるということだ。 対象の性質が認識されるということは、生き物の「身体や欲望」というそれを認識する「力」があるということだ。 すなわち、生き物の「力への意志」なしには、そもそも認識もなく、また認識される「存在」もない。だから「力への意志」を抜きにした「物自体」、存在それ自体というものはない。 これがニーチェによる「存在それ自体」の否定の論理である。いいかえれば、存在とは認識主体の「力」と相関的にのみ成立するのだ。 ここからの帰結はこうなる。 一切の認識は、まず客観自体、物自体があって、それを「生き物」が正しく認識する、というのではない(客観→認識図式の解体)。一切の認識は、それぞれの「生き物」の「力への意志」に応じて主体のうちに「生成」される。「正しい認識」なるものはどこにもなく、また「客観それ自体」というものもない。 認識とは、根本的に個々の「生への意志」「力への意志」の相関者である。それゆえまた、まず「存在」があるのではなく、個々の生き物の「力への意志」(生への意志、欲望)に応じた世界の「生成」がはじめにある。そしてここから「客観的存在」なるものが、一つの「想定」として現われてくるにすぎない! さて、このニーチェの認識論と存在論はやや分かりにくいかもしれない。そこでもう一つ補助線をひいてみよう。 【つづきの「ニーチェは「『世界』は存在しない」と主張したのか?…ニーチェの認識論と存在論の正しい理解」では、ニーチェの認識論と存在論をさらにわかりやすく説明します】
竹田 青嗣、荒井 訓
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