「17歳で紅白めざして本当に歌手になった」…『紅白博士』が語る「昭和100年」と「昭和歌謡」
SNSのトレンド入りをした貴重回の『懐かしの紅白歌合戦』
今年で「紅白歌合戦」は75回目を迎える。来年は「昭和100年」であるが、ラジオ放送開始からも満100年ということになる。そんな関係から“放送100年企画”として連日「みんなのベスト紅白」として、人それぞれの思い出の中に残る「紅白」の歌唱シーンなどが流されている。 当日胃けいれんで出場辞退、衣装を詰めたまま運転手が行方不明に…「紅白歌合戦の舞台裏」【紅組編】 しかし今回、何しろ話題だったのが12月14日から2日間に分けて、『懐かしの紅白歌合戦』として放送された昭和46(1971)年の「第22回紅白」のリマスター版である。 NHKには昭和38(1963)年以降の「紅白」のVTRが保存されており、それらは何度か再放送されているが、この年のものは今まで一度も再放送されていなかった。VTRの保存状態が悪かったのだ。そこで今回はひとつひとつ修正をかけ、よみがえったのである。 この年は五木ひろしが『よこはま・たそがれ』、堺正章は『さらば恋人』、尾崎紀世彦は『また逢う日まで』。対して紅組も小柳ルミ子の『わたしの城下町』に加藤登紀子は『知床旅情」、南沙織の『17才』など、今なお生き残る大ヒット曲を引っ下げて「紅白」に初出場している歌手が多い貴重回である。 紅組のトリは最多出場の美空ひばり。それに対して白組トリは4回目の出場ながらすでに3回連続トリを務めている森進一。名歌、『おふくろさん』を大ヒットさせた年だ。 翌年、札幌で開催の冬季オリンピックの会場とも中継をつなぎ、会場ではオリンピックの歌『虹と雪のバラード』をトワ・エ・モワが歌った。私は当時、北海道の室蘭に住む小学4年生だった。この歌を学校で教わり、みんなで五輪成功を祈りながら歌ったものだ。 小学4年生のときの記憶が一気によみがえった。実はこの年、父から小型のカセットテープのデッキを買ってもらい、「紅白」を録音していたのだ。その音源はその後、紛失してしまったが、実は私が2歳の昭和38年の「紅白」の音源が残る。 ◆最高視聴率81.4%の「第14回紅白」と「合田家の昭和38年の記録」 2歳当時、私たち家族は釧路に住んでいたが、父は北海道新聞の若手記者でその年末に釧路管内の「今年の出来事や事件を振り返る」といった内容のラジオ番組に出た。そんなことは父にとっても初めてだったし、その後もないと思ったからだろう。記念にその音源を録音して残しておこうと、当時としては高価だったオープンテープのデッキを購入。出演したラジオをそのまま母が録音したのだ。 当時の音源を聞いてみるとラジオから流れる父の声に向かって2才になったばかりの私は、「パパ、パパ」と探すように声をかけている。そのテープを聞きながら父は考えたのだろう。数日後に開催された「第14回紅白」を茶の間で録音しながら、そこに私の声や父母の声も一緒に入った「合田家の昭和38年の記録」をその年を代表する歌とともに録音したのだ。 その「紅白」は、現在までの最高視聴率、なんと81.4%を記録しているが、この年の初出場歌手もなかなかのメンバーである。北島三郎、倍賞千恵子に『高校三年生』の舟木一夫、「レコード大賞」の『こんにちは赤ちゃん』、さらに扇子片手に畠山みどりの『出世街道』。 2歳の私が一緒に歌っている。翌年の年末も同様に録音するが、その年には妹が生まれ、泣いている声と一緒に「紅白」の歌が流れている。 そんなことから私は「紅白歌合戦」が一番好きな番組となり、17歳で「紅白」めざして本当に歌手になった。そのうちに自分が生まれる前の「紅白」の歴史を調べ出したり、歌手協会に入って当時まだお元気だった「紅白」初期の出場歌手たちから直接エピソードを伺ったり……。それが『紅白歌合戦の真実』(幻冬舎刊)に始まった『紅白歌合戦の舞台裏』『~ウラ話』(全音楽譜出版刊)などの書籍につながった。