「死ぬ5分前までしゃべっていたい」――引退に揺れる、上沼恵美子の孤独と本音
海原お浜・小浜の門下で「海原千里・万里」としての活動がスタート。高校時代は梅田でストリップ劇場を改装した舞台に立った。楽屋で先輩たちにいびられたことをよく覚えている。 「舞台の前に、ホットカーラーで髪を巻いてたんですね。さあ巻こかと思ったら一本もない。関係のない方がそのカーラー全部巻いて、後ろ通らはったんですよ。『私のなんですが』って言ったら、『知らん知らん』。一番多かったのは、化粧品を隠される。眉のない姉がボールペンで書きましたね。お客さんは離れていますから分からないんですけど、私が一人で笑ってました」 「地方営業に行くと、男も女も一緒の部屋に入れられる。着替えるのを躊躇していたら、『何を色気出しとるねん。ここで着替えんかい、そやなかったら女芸人やないぞ』って、もうボロンチョですよ」
やっぱり東京に行きたかった。根っこでは悔しい
テレビやラジオの出演が続々決まると、いびりは消えた。一躍人気を集め、1976年にはレコード「大阪ラプソディー」が40万枚を売り上げるヒットとなった。ちょうどその頃、現在の夫と出会い、22歳で結婚。コンビを解消して芸能界を引退した。 「好きで好きで、人ってあんなに人を愛せるんだなっていうのを、今でも覚えております。今、その主人、好きじゃないですけど。結婚した時は頭フェスティバルでした」 23歳で出産。迷いなくやめたはずが、産後3カ月で「上沼恵美子」として活動を再開する。 「芸の虫っていうとオーバーかな。オファーが来ると、行きたい気持ちがモコモコッと出る。結婚したら仕事をしないという約束だったので、主人はいくつも条件を出してきましたね。大阪を出てはいけない、歌ってはいけない、芝居してはいけない……。7つぐらい書いてました。まあ顔色を見ながら、歌ったり舞台に出たり。『僕の年収を超えるな』っていう条件は、次の年に超えました」
2人目の子を出産した後、『バラエティー生活笑百科』(NHK)にレギュラー出演するようになる。この番組で、自分の「しゃべり」に手応えを感じた。 「ホラを吹くキャラを自分でつくったんですね。『実家の大阪城から参りました』とか言うと、ドッカンドカンと笑いが返ってくる。歩いていたら『大阪城行ってきたで、恵美ちゃんの実家』と声を掛けられる。全国津々浦々で放送されて、視聴率もすごくよかったんです」 全国で知名度が上がり、『NHK紅白歌合戦』の司会も務めたが、本格的な東京進出はしていない。「東は滋賀、西は姫路まで」が夫との取り決めだった。今振り返って、後悔がないわけではない。 「5、6年前、大阪の番組の打ち上げで、飲んで愚痴りました。『東京行きたかったわ。だって、全身震わして、絞り出して、ギャーッと汗流して、面白いことをスタジオで言っても、滋賀県から兵庫県までしか流れてないやん。ローカルタレントは空しい』って。ビールも回ってたんで申し訳ないですけども、言ってしまいましたね。根っこのほうでは、悔しいと思ってたんだと思います」