「死ぬ5分前までしゃべっていたい」――引退に揺れる、上沼恵美子の孤独と本音
「何を色気出しとるねん。ここで着替えんかい」
1955年、兵庫県の淡路島に生まれた。小学校の頃は「正義のガキ大将」で、転校生をいじめる子たちをやっつける軍団のリーダーだった。「恵美ちゃん強かった」と友達には言われている。芸の道を歩むきっかけは、銀行マンの父がつくった。 「父は地方銀行に勤めていました。母はそのサラリーだけじゃ食べていけないので、家でお好み焼き屋をやったり、焼き肉屋に転じたりしておりました。父は芸事が好きで、老人ホームへ慰問に行くためにお金を使ってましたね。老人たちを食堂に集めて芸を見てもらって、あんパンとクリームパンを配る。父が奇術をしたり漫談したり。私も姉と2人で漫才させられたり。無理やりですね」
歌がうまく、9歳頃にはラジオ番組の『素人名人会』(毎日放送)で名人賞をもらった。町の祭りや旅先の「のど自慢大会」にも駆り出された。 「すごくうまかったんですね、自分で言うのも何ですけど。その時に覚えたのは、皆さんにウケるっていう感覚。歌ですから笑いはしないんですけども、拍手喝采。全身で覚えてしまいましたね。演歌をこぶし回して歌うわけですよ。私のワンマンショーになるんです。客席からいろんなものが飛んできたり、ようかん持って走ってくるおばさんがいたり」 『日清ちびっこのどじまん』(フジテレビ)にも出演。ライバルは天童よしみだった。 「天童さんも大阪で『のど自慢荒らし』をしてたんですよ。天童さんは15回、私が16回のチャンピオン。東京でグランドチャンピオン大会があるわけです。グランドチャンピオンになったよしみちゃんが前に出ていって、負けた者が後ろで拍手をする。チクショーと思いました。私、今も生意気にコンサートやってるんですけど、よく言うんです。『悔しくて、後ろからよしみちゃんの首をキュッと絞めてやろうと思った。でもね、よしみちゃんには首がなかったんです』って。するとドカーンと来るんですけどね」
「初舞台」は13歳、名古屋の大須演芸場。6歳上の姉が別の女性とコンビを組み、舞台に立つ予定だった。ところがその女性が失踪し、父に「おまえが行け」と命じられる。 「すごい嫌でした。多感な頃です。当時は今のお笑いと違って、笑われるっていう感じでした。ちょっとさげすまれる。父は堅い銀行勤めなんで憧れたんでしょうけど、夢を託された娘はやってられません。『災難』というタイトルの漫才をやりました。どなたかのネタを父がパクって書いたんだと思います。全くウケません。なんでこんなしんどいことをさせられてるんだろうと」