司馬遼太郎・生誕100周年 「シバスコープ」はプーチン登場とウクライナ戦争を予言していた? そのロシア観を考える
第一声は居合い抜き
テレビ愛知の関係局であるテレビ大阪で収録することとなり、僕と長谷川くんは車で司馬さんを迎えに行った。東大阪の少し入り組んだところ「福田」という表札のある門のブザーを押した。みどり夫人が丁寧に迎え、庭の緑が目に入る居心地のいい応接間にとおされ、メロンを出された。 恐縮しながらも美味しくいただいていると、奥から司馬さんが現れた。 「今、加賀乙彦さんの小説を読んでいたのですが、彼の小説はゴシックの大聖堂のように、下から上へしっかりと積み上げられていますな。それは彼がキリスト教徒だからでしょうか」 これが司馬さんの第一声であった。 おどろいた。この国民的大作家は僕が送った本をちゃんと読んで「西洋の文化はその建築のように積み上げる文化だ」という論理を話しているのだ。加賀さんは日本人だが、キリスト教徒だからその小説を論理的に積み上げている、と。 出会った瞬間の居合い抜きである。僕は一発で感動させられた。座談の名人といわれているが、そのとおりだ。彼の文体は「座談の文体」というべきか。 スタジオに向かう車中も司馬さんは色々と話してくれた。 「キリスト教の大聖堂を見ていると、人間というものは、あまり根拠のないものでも、その周囲に凄まじいものを構築していくと感じますな」という。 「宗教に限らず人間の文化は一種の構築物であり構造物ですね」。僕はいう。 「中身より構築や構造に意味があるんだろう」。司馬さんはいう。 「しかし、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教のような一神教の教会は、人間が中に入って天の神に祈る場ですが、ギリシャ神話やヒンズー教や仏教・神道のような多神教の寺院は、ある種の像や象徴物を中に置いて人間は外から拝むもので、これはずいぶん違いがあります」と僕はいった。 「なるほど。抽象的な絶対神と偶像崇拝との違いですかな~」と司馬さんはうなずいた。もちろんこれは僕の記憶であるにすぎない。 やがてスタジオについて収録が始まった。東海地方のみの放送だったが、テレビ番組としては大成功で、長谷川くんは社長賞を獲得し、僕は東海地方のテレビ局によく呼ばれるようになった。対談の内容はのちに朝日新聞社から別冊週刊朝日として出版されている。