戦国最強・上杉謙信が<唯一負けた>天才軍師は名前の読み方すら不明で…れきしクンも「何者なんだよ!」と唸る人物のナゾに迫る
大河ドラマ『どうする家康』『麒麟がくる』などには著名な戦国武将が登場します。しかしその裏に、もっと注目されてもいい<どんマイナー>なご当地武将が多く存在する!と話すのが「れきしクン」こと歴史ナビゲーター・長谷川ヨシテルさん。長谷川さんがそんな彼らの生涯をまとめた著書『どんマイナー武将伝説』のなかから、今回は「謎の天才軍師・白井浄三」を紹介します。 93歳で関ヶ原に出陣した武将が!?信長、秀吉、家康に信頼された弓矢の達人の「マンガのような逸話」 * * * * * * * ◆上杉謙信を破った天才軍師 “戦国最強の武将”のアンケートを取れば、必ず上位にランクインしてくるのが上杉謙信です。 軍記物だけでなく史実でも確かに強かった上杉謙信ですが、唯一敗戦を喫した合戦が千葉県に伝えられています。それが1566年(永禄9)3月23日の「臼井城の戦い」です。 上杉謙信(当時の名は輝虎)の本拠地は越後(新潟県)でしたが、敵対する小田原城(神奈川県小田原市)の北条家との戦いのため、毎年のように三国峠を越えて関東に攻め込み、北条方の諸城の攻略に取り掛かっていました。 この年も正月から関東に進軍すると、2月に北条方の小田氏治の小田城(茨城県つくば市)をあっという間に攻略。 続いて臼井城(千葉県佐倉市)に攻め寄せました。臼井城を守るのは原胤貞。下総(千葉県)の有力大名だった千葉家(北条家に従属)の家臣でした。上杉軍を前に絶体絶命! そんな不利な戦況から大逆転して上杉謙信を破ったといわれているのが、謎の天才軍師・白井浄三だったんです。
◆天文学と占いを駆使した名采配 浄三さんに関するパーソナル情報ですが、ほとんどが不明です。当時の史料では確認できず、登場するのは後世の軍記物のみになります。 名前についても軍記物によって「白井入道」(『小田原記』など)、「白井入道浄三」(『三好記』)、「白井四郎左衛門入道浄三」(『関八州古戦録』など)、「白井下野(しもつけ)入道胤治(たねはる)」(『千葉伝考記』)というように様々です。 さらに「浄三」の読み方についても不明でして、史料的な価値はないものの、『真書太閤記(しんしょたいこうき)』(江戸時代後期の豊臣秀吉の一代記)にある振り仮名から判断すると、「浄」は当時「じょう」と読んだようですが、「三」にはルビがないので読みは「さん」「ざん」「み」「ぞう」なのかはわかりません。本記事では私の好みで「じょうざん」としています。 浄三さんの経歴について、『関八州古戦録』には「千葉家の一族で、武者修行のために上方に行って、三好日向守長依に仕えたが、この間、下向して当城(臼井城)にいた」とあります。 三好日向守長依とは、おそらく三好長逸(ながやす)のことで、織田信長が政権を握る前の三好政権の有力者だった“三好三人衆”と呼ばれるメンバーのひとりです。 また、浄三さんの能力については「天文の巧者にて、軍配を考え、その利を示す」とあるので、天体や空に関する知識があり、それによって有利な軍勢の配置や進退を考えて助言していたようです。 『三好記』には、旗雲(はたぐも。旗のようにたなびく雲)が出現して多くの人々が吉凶どちらの兆しかが気になっていたある時、浄三さんが「味方の吉事」と占ったと記されています。 さらに『三好記』では「無双の軍配名誉」、『小田原記』では「無双の軍配の名人」と称されるなど、その軍配能力は当時ナンバーワンだったといいます。 ちなみに、1915~19(大正4~8)にかけて刊行された『大日本国語辞典』という辞書の「軍配」の項目の中では、代表的な軍配者として、有名な山本勘助(武田信玄の家臣)とともに、浄三さんが紹介されています。
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