司馬遼太郎・生誕100周年 「シバスコープ」はプーチン登場とウクライナ戦争を予言していた? そのロシア観を考える
毛皮からエネルギー資源へ
司馬さんの筆は、毛皮取引のためにアラスカ(1867年アメリカに売却するまでアラスカはロシア領であった)につくられた国策会社「露米会社」(1799~1867年、イギリス、オランダの「東インド会社」、日本の「南満州鉄道」に似たようなものか)に及ぶ。毛皮産業とこの会社を支配していた外交官レザノフは、交易相手として日本に目をつけ、長崎に来航し、幕末の日本史にも影響を与えた。 当時、西ヨーロッパに輸出するロシアの主要産業は「毛皮」であり、それは今日の石油や天然ガスといった「エネルギー資源」に当たる。この国は常に、その経済力を広大な大地からの収奪に依存しているのだ。 大阪外国語学校蒙古語部(現大阪大学外国語学部モンゴル語専攻)を卒業した司馬さんだけに、愛するモンゴルと遊牧民についての記述も多い。今日のウクライナ戦争の報道のように、あるいはナポレオンやヒトラーの侵攻の記述のように、われわれはロシアを「西からの目」で見る傾向にあるが、司馬さんは常に「東からの目」で、中央アジアの草原を、その草原をわたる風を、その風の中で遠方を眺めて生きる遊牧民たちを見て、その筆は、キプチャク汗国、シビル汗国、コザック(ハザク=体制から外れた遊牧民組織=乱暴者の意味)、イワン4世(雷帝)、レザノフ、ゴローニン、高田屋嘉兵衛などに及ぶ。 アメリカという国の文化的全体像が、南部の農園社会を知らなければ語れないように、ロシアという国の文化的全体像は、東部のシベリアと大草原の民族の興亡の歴史を知らなければ語れない。
「シバスコープ」の三つのレンズ
『「家」と「やど」―建築からの文化論』(若山滋著 朝日新聞社1995年刊)という本を送ったときに、司馬さんからいただいたハガキに「懐かしく思い出します」とあった。その筆跡がやや弱々しかったのが気になったが、まもなく亡くなられた。記念館をつくると聞いて変な建築にならなければいいが、と心配したが、安藤忠雄さんが設計することになってホッとした。 死後にも、司馬さんにかんする膨大な出版物が刊行された。まさに昭和という、日本が妙に元気だった時代を代表する作家であった。だがそのためか、平成あるいは令和という、日本が元気を失った時代に生きる今の若い人にはあまり読まれない傾向があるのかもしれない。僕は今の学生たちに司馬さんを知らない人が多いことにおどろいた経験がある。また彼独特の歴史的記述に対しては「事実誤認がある」という専門研究者の指摘も少なくないようだ。 しかし僕は彼を尊敬し、そのものの見方を信頼している。彼のものの見方すなわち「シバスコープ」は、作家、歴史家、ジャーナリストという「三つのレンズ」で構成されている。そして遥か遠方を視野に入れ、そこに吹く風を感じさせ、空間(世界)的にも、時間(歴史)的にもスケールが大きいのである。 司馬遼太郎はソビエト崩壊後のロシアとプーチンという人物の登場について書く機会はなかったようだが、今日のウクライナ戦争におけるロシアについても、彼の「シバスコープ」が、日常の戦況報道では見られない、くっきりとした像をむすんでいることを感じる。 また僕の言葉でいえば、司馬遼太郎という人は、前回書いた「都市化のルサンチマン・文明への怨念」といったものを、強く意識していたような気がする。彼の小説は、都市化の力とその反力が拮抗する中に置かれた人物の思想と行動を追ったのではないか。