厳しい「生活保護バッシング」に耐えながら裁判に立ち向かった当事者たち 「歴史的な大逆転判決」はどのようにして生まれたか?
受給者のためだけの戦いではない
判決が言い渡された11月30日、名古屋高裁にはマスコミや支援者などが詰めかけ傍聴席は満席となった。訴訟を提起してから10年。原告らの熱意は多くの人に伝わっていたのだ。「大逆転判決」が言い渡されると法廷は大きくどよめいた。 炊き出し会場でのボランティアを通じて裁判を知り、傍聴に通うようになったという団体職員の松島周平さんは「判決を聞いたときには、炊き出しに並んでいる人たちの顔が思い浮かび、身震いした。原告らは裁判を通じて社会の底が抜けていくのを止めようとしてくれた」と語った。 名古屋市内で障害者の支援を行う社会福祉法人「さくらんぼの会」の大野健志さんは「粘り強く戦い続ける原告を見て『おかしいことはおかしい』と声を上げ続けることの大切さを実感した」と目を細めた。同会では、2人の利用者が原告となっている。 自身も20代の頃に家族が生活保護を利用していたという内河恵一弁護団長は「生活保護利用者の生活実態を理解したからこそ出せた、非常に人間味あふれる判決」と評価した。「人前で困窮した生活を明らかにし、話さなければならない裁判は、原告らにとって非常に大きなプレッシャーでもあったはず。統計や社会保障の専門家、元ケースワーカーらも協力して生活保護利用者の生活実態を訴えてきたことが、今日の逆転判決につながった」。 澤村さんは判決後、「住民税の非課税基準や保育料、修学援助など、生活保護基準を目安にして設定されている制度はたくさんある。生活保護基準を引き上げることは、生活保護利用者だけではなく日本に住む多くの人の暮らしを豊かにすることにつながる」と訴えた。 人々の暮らしに関わる制度は適切な手続きを経て、法律に基づいて決定すること。「歴史的な大逆転判決」とはいえ、10年の裁判を経て認められたのは、至極当たり前の結論であったとも言える。「やっと認められた」という澤村さんの顔には、さまざまな理不尽に耐えてきた苦労が滲んでいた。 澤村さんは「国は判決を受け入れて」と続けた。しかし、判決から2週間後、国と自治体(名古屋市、豊橋市、刈谷市)は高裁での判決を不服として最高裁判所に上告した。 (石黒好美/nameken)