「もう復興したんだよ、いまは元気です」――ラジオとももクロに救われた「少女」の物語 #これから私は
震災当日の朝に女川町の自宅を出てから約4年間は、両親の職場のある石巻市での避難生活を余儀なくされた。 「津波の直接の被害はなかったんですが、地盤沈下のため毎日満潮のときに家が水に浸かって、住めない状態でした。父が会社の車で自宅に戻って、『これだけは絶対に持ってきて』ってリストアップした物だけ持ってきてもらいました」 4月に石巻市の中学校に進学し、同年9月には同市の「みなし仮設」に入った。 「その当時なりに、明るいつもりで生活はしてたんですけど、ときどき『女川に帰りたい』って泣いてました。両親の前で泣いたこともあって。私が泣いてなければ、たぶん別の場所に住んでたと思うんです。小学4年生のときに、石巻から女川に引っ越して、小学校はずっと石巻のままだったんですけど、女川はわりと伸び伸びと暮らせる場所だなと感じてて。そのときは学校が違ったから、みんな私のことを知らないっていう無干渉が過ごしやすかったのかな。人が多いのが苦手なので、石巻から出たいのもあったのかもしれません」 自宅が再建され、ようやく女川町に戻ったのは2015年10月のことだった。
女川町に来るももクロに救われた
自宅が再建された年の6月。こころさんは震災後に女川町に開設された臨時災害放送のラジオ局「おながわさいがいエフエム」の高校生パーソナリティーに応募し、採用された。「みんな私のことを知らない」からこそ過ごしやすい。そう話していた小学生時代の彼女はもうそこにはいなかった。 「被災して時間が経つうちに、家族で利用していた町内の飲食店の人や、スーパーの店員さん、ご近所の人など、自分に声をかけてくれた人の顔が思い浮かんで。『私は地域の一員だったんだ』と実感して、『女川が大好きだ』という気持ちが湧いてきました。そんな大好きな町をつくっていく一員になりたいな、って。そのときTwitterで知った高校生パーソナリティーという役割なら、って思って」
おながわさいがいエフエムは、ボランティアの手で2011年4月に開設された。当初は避難生活者向けの情報を放送していたが、こころさんが参加した2015年は、町の復興も進んでいた。新たな店舗や施設がオープンするたび、現場に出向き、町の人々の声を拾った。人との関わりが苦手なはずの彼女にとって、見知らぬ人と話すことは、苦痛ではなかったのだろうか。 「大変でした。いまも大変です。町内外の方にお話をうかがう際は『私、見当違いな質問をしていないだろうか』などすぐ心配になり、あらかじめ決まった質問以外聞くことができなくて」 それでも、活動を通じて自分の名前が知られていくにつれ、彼女の心境にも変化が生まれた。 「日曜日に『おながわ☆なうサンデー』っていう高校生の番組があって、ほぼ毎週出て。友達がたくさん増える感じで嬉しかったです。『今日はこの人と知り合いになれた』とか『今日もこの人と話せたな』とか、信頼を築けてる感じが嬉しかったですね。苦手ではあるけど、それができたら嬉しい。周りの支えもあり、『こころちゃんだよ』って紹介してもらって」 女川町をたびたび訪れた「ももいろクローバーZ」との交流も彼女の支えになった。 ももクロは、おながわさいがいエフエムの高校生パーソナリティーの存在を知り、被災地で頑張る同世代を応援したいと女川町を訪れるようになった。高校生パーソナリティーとなったこころさんも、女川町を訪れたももクロと対面する。 「2015年9月です。『嘘でしょ、目の前に顔のちっちゃい、好きな人たちがいっぱいいる』って思ったし、『こんなにかわいい人たちが目の前にいる、嬉しいな』って思いました」