学習院の「つめこみ教育」で体を壊すことも… 天皇が学ぶカリキュラムとはどんなものなのか?【天皇と教育】
今、悠仁さまの東大進学に反対署名1万人超が集まるなど、皇室の進学問題が世間を騒がせているが、皇室の教育とはどんなものなのだろうか? 明治天皇、大正天皇が受けた教育から、皇太子が受ける「帝王学」とは何かを考えてみよう。 ■帝王学とはどんなものなのか? 帝位を継ぐことを目される皇太子にだけ、現役の天皇から与えられるという「帝王学」。しかし、定番の教科書が何か存在しているというわけではなさそうです。 大きくわけて「帝王学」の伝授には、2つの方法があると考えられます。一つにはさまざまな講師たちを個人的に招き、彼らから「民の上に立つ帝王=天皇」としての心構えを教わること。さらにもう一つ、現役の天皇やその他の皇族の方々の生き様を間近で見て、そこから学び取ることも、「帝王学」では重視されるファクターのようです。 ■なぜ、明治天皇は学習院に通わなかったのか? さて、明治天皇が受けた教育についてみてみると、幼い頃には、高名な学者の伏原宣輸(ふしはら・のぶさと)らが京都御所に招かれ、漢学の基礎にあたる「四書五経」を教授したという記録があります。 東京に移ってからは、当時の欧米の知見を反映した政治学や軍事学の個人授業もはじまり、ときに「ご学友」と呼べる同世代の子供たちと共に授業を受けることもあったようです。しかし、天皇が特定の学校に通うことは最後までありませんでした。 幕末の帝・光格天皇が公家の子弟たちに教育機会を与えるために誕生したのが学習院で、明治天皇の時代にはすでに学習院は存在していたのですが、なぜ通わなかったのでしょうか? そこには、明確な理由がありました。 当時の学習院といえば、現代の多くの人がイメージするような「皇室のための学校」でなく、個人教授を雇うことができない「貧しい公家のための学校」だと考えられていたのです。 ■ツメコミ式教育で体を壊してしまった大正天皇 当時の上流階級の教育といえば、明治天皇が受けたように、マンツーマンか、ごく少数の生徒たちと1人の講師という形式で行われるのが普通でした。しかし、そうした教育費を捻出できないほどに貧しい公家の家庭が当時の京都にはあまりに多く、身分だけは高いのに、教育がない廷臣たちが宮中に増えることを憂えた光格天皇が、創設に踏み切ったのが学習院だったのです。 天皇の皇子で、最初に学習院に入学したのは嘉仁親王(のちの大正天皇)でしたが、中等科に進学後、わずか1年で退学することになりました。あまりのツメコミ式教育で、体を壊してしまったからだそうです。ただ、皇太子時代の嘉仁親王は健脚で知られ、徳川慶喜とも野山を駆け巡って狩猟を楽しんだ逸話がある方です。おそらくノイローゼになってしまったのではないでしょうか。 ■帝王たるもの、考えてくれたカリキュラムに文句を言ってはいけない? しかし、明治天皇の強いご意向で、嘉仁親王が当時お住まいだった東宮御所において、専門的な教育が個人授業という形式で続行されました。 さらにこれも明治天皇の強いご意思で、過去の帝たちが学んできた和歌や漢文といった学問の基礎知識の習得に加え、欧米における最先端の歴史学、地理学、さらには当時の国際言語だったフランス語もかなり専門的に学ばれたようです。 ただ、最小限の年数で最大の量の内容を習得できるカリキュラムが東宮職(皇太子つきの役人たち)の手で組まれていたので、ツメコミ式教育が合わずに退学した嘉仁親王としては、不信感を抱いてしまったようです。役人たちをクビにしようとしたところ、そこにも明治天皇が立ちはだかって、厳しい教育が続けられたのでした。 ここでわれわれが感じ取るべきなのは、嘉仁親王の教育現場において、何を学ぶかと同時に、「帝王たるもの、臣下の役人たちが考えてくれたカリキュラムに文句をいうことは許されない」という明治天皇からのメッセージこそが、「帝王学」の本質だったのかもしれません。 ちなみに、学習院などとは異なり、大正天皇の授業に数学、理学(理科)といった理系科目の授業は存在しませんでした。それゆえ純粋な「文系」だったと思われがちですが、大正天皇は父宮である明治天皇譲りの「動物好き」であり、兎の動き方を見て、ペットの兎と野生の兎を一瞬で見分けられる鋭い観察眼をお持ちだったことは有名ですね。
堀江宏樹