信長の後継者一番手だった【柴田勝家】が豊臣秀吉に負けた理由とは何だったのか⁉
織田信長の家臣として、一番手といっても過言ではない地位を築いていた柴田勝家は信長の死後、豊臣秀吉に敗れ、散ってしまう。そこにはどんな理由があったのだろうか? ■人望、将器はあったが京との距離に泣いた柴田勝家 賤ヶ岳合戦で秀吉に敗れた柴田勝家が、北ノ庄城に敗走する途中、前田利家が籠もる越前・府中城に立ち寄った。勝家は、利家の裏切りを怒りもせずに、これまでの友情に感謝して立ち去った。去り際には、秀吉との関係をさらに深めることを進言したという。 秀吉軍に完全包囲された北ノ庄城で勝家は、信長から拝領した名物を並べ最後の酒宴を開いた。家臣たちには投降を勧めたが、誰もが最後まで戦い、勝家に殉じることを誓った。酒宴半ばで勝家は正室のお市の方に落ち延びるように勧めたが、お市はこれを拒絶し、3人の娘だけの保護を求める書状を書いて、勝家に殉じた。天守に立て籠もった勝家主従は最後の奮戦をしたが自刃して62歳の生涯を閉じた。 秀吉に対する勝家の敗因は、いくつか上げられるが、まず気候を含む地政学的な要因があった。勝頼の居城・北ノ庄城は信長の北陸方面軍の要衝であったが、畿内からは遠い。勝家は、城下街作りとして足羽川と九頭竜川に橋を架けて通行を便利にした。また木ノ芽峠から敦賀に至る街道や柳ヶ瀬に下りる街道も整備した。とはいえ畿内への距離というハンデが、勝家を敗因に導く敗因にもなった。「本能寺」の際にも勝家はすぐには京都に行けなかった。また、この要因のもう1つは北ノ庄城が雪深い場所という理由もあった。秀吉との決戦でも、この豪雪が邪魔をした。いくら交通網を整備しても、豪雪の前にはなす術もない。勝家の到着前に、滝川一益はやすやすと降伏してしまっていた。 ■豊臣秀吉との兵力差と乏しかった外交手腕 また、最大の敵である上杉謙信・景勝を相手にしなければならないという地政的な理由も挙げられるよう。 次に軍事的な理由がある。秀吉が山崎合戦で明智光秀に勝利したことや「清洲会議」の遺領配分を差配したことから、秀吉は旧織田家家臣団の大半を掌握した。賤ヶ岳合戦の頃には7万を超える軍団を指揮するまでに膨張していた。これに対して勝家は、北陸軍司令官として信長から預かっていた与力の前田利家・金森長近・不破勝光、これらに北陸方面の国衆を加えても2万にしかならない。この圧倒的な兵力差は大きかった。さらに、勝家に同心したのは、伊勢の滝川一益と岐阜城の信長3男・信孝しかいなかったのである。しかも前田ら与力衆は、合戦半ばで戦線離脱という裏切りまでやってしまった。 3つ目には「外交手腕」が挙げられる。勝家も、秀吉の大包囲網(毛利・徳川・伊達・本願寺など)を画策するほどのインサイドワークを発揮するが、結局実現には至らなかった。なかでも毛利氏が「両方の様子見」という道を選んだことが、勝家の秀吉包囲網を完成に至らせなかったのであった。秀吉との外交手腕の差が敗因に繋がった。 4番目は指揮官の資質である。勝家本人は指揮官として有能・優秀であったが、軍事面をリードする指揮官が不在だった。甥の佐久間盛政は勇将だが「猪突猛進型」で軍略には欠けていた。勝家の敗因は、勝家軍そのものにあったといえよう。 なお勝家は「鬼柴田」とも呼ばれ武辺一辺倒の武将のようにいわれる勝家だが、実は軍略にも長けており、越前での治世も商業・農業の振興、交通網の整備など近世福井の基礎を築いた有能な大名であった。 また勝家側に付いた一益は、秀吉に降伏して余生を送る。信孝は兄・信雄によって自刃させられた。勝家の完敗であった。 監修・執筆/江宮隆之 歴史人2024年7月号『敗者の日本史』より
歴史人編集部