セルジオ越後からジーコまで 日本サッカーが影響を受けたブラジルの超絶テクニック
【セルジオ越後の超絶テクニック】 ネルソン吉村に続いて、ヤンマーにはカルロス・エステベスや日系のジョージ小林も加わった。さらに、新興チームの読売サッカークラブ(東京ヴェルディの前身)にはジョージ与那城がやって来た。 そして、1972年に藤和不動産(後のフジタ工業=湘南ベルマーレの前身)にセルジオ越後が加入した。 吉村などは日系人リーグで活躍していた選手だが、越後はトップクラブのコリンチャンスでプレーした経験があり、W杯に3回出場することになるリベリーノとポジション争いをしたという選手だけに、そのテクニックはまさに超絶ものだった。 越後は1974年シーズンを最後に29歳で引退してしまったが、その後もコーチとしてピッチに立ち、試合前にはボール回しに加わったり、GKに向けてボールを蹴っていた。僕にとっては、そうした試合前のウォームアップの時間の越後の"プレー"のほうが試合よりずっと楽しかった。 その後、越後は日本全国でサッカー教室を開いて、子どもたちにテクニックを披露してサッカー普及に貢献するとともに、メディアでの辛口批評も注目を集めた。そして、日本とブラジルの架け橋的な存在にもなった。 前回のコラムにも書いたように、それまでは日本人選手が外国籍の選手より下手なのは当然と思われていた。個人技の不足を、戦術や運動量で補おうとしていたのだ。 だが、吉村や与那城、越後といった日系ブラジル人選手たちと出会い、メキシコW杯のブラジル代表を見た指導者のなかには、日本の少年たちにテクニックを身に着けさせようと考える指導者が現れてきた。 たとえば、日本ユース代表監督を経て広島県立工業高校の監督となった松田輝幸もそんな指導者のひとりで、日産自動車(横浜F・マリノスの前身)や日本代表で活躍する金田喜稔や木村和司をはじめ、多くの名選手を育てた。 また、静岡学園高校監督の井田勝通はブラジルスタイルを目指してドリブルを徹底指導。1977年1月に開催された全国高校サッカー選手権大会では、その独特のゆっくりしたリズムの攻撃で初出場ながら決勝に進出。決勝では浦和南高校に4対5で敗れたが、日本中に衝撃を与えた。 つまり、1960年代後半から1970年代初めにかけて、さまざまな形でブラジルから刺激を受けたことが日本サッカーのレベルアップにつながったのだ。1970年代の日本代表は弱体化し、日本サッカーリーグ(JSL)の会場には閑古鳥が鳴いていたが、実はその裏で次の時代に向けての大きな変化が起こっていたのである。そして、1970年代末にはそうした少年たちが成長して日本にもテクニシャンタイプの選手が増えてきた。