ホンダ「CB」の名を世界に轟かせた脅威の4気筒マシンと、スーパーバイクレースの夜明け
アメリカンホンダの要求を見事実現した「CB750FOUR」は、1968年10月の東京モーターショーでお披露目され、翌1969年4月にアメリカとカナダへ輸出を開始し、8月には日本国内でも発売を開始します。 また、同じ8月の「鈴鹿10時間耐久レース」に出場し、初レースで初優勝を果たします。翌月にはフランスの「ボルドール24時間耐久レース」でも優勝を飾りました。 「デイトナ200マイルレース」の主催者は1970年の開催に向けて、それまでの米国車に有利な車両規制を変更し、観客に人気のある海外製の大型スポーツバイクも出場できるようにしました。 そうしてイギリスからはBSAとトライアンフ(当時はBSAの子会社なので基本的には同じ車両)とノートン、アメリカのハーレーダビッドソン、日本の4メーカーが参戦します。 参加車両の改造規則を簡単に言うと、市販車のエンジンを使用していれば何でもOKでした。予選上位の多くはバイクメーカーが自ら製作した、いわゆるファクトリーマシンです。どのバイクも当時自社が持っている最強エンジンをチューニングし、レース専用の車体に載せていました。 最強エンジンと言っても、当時の英米のバイクはOHVかサイドバルブ方式で、日本車はホンダの「CB750FOUR」以外は2ストロークエンジンです。このことからも、SOHC並列4気筒エンジンを搭載している「CB750FOUR」の先進性が伺えますが、車体はノーマルフレームがベースと思われるものでした。
ホンダにとって、排気量750ccの並列4気筒エンジンでのレースマシン開発は初めてことでした。世界GP参戦時代の500cc並列4気筒マシン「RC181」で得たノウハウを応用することになりましたが、それでもライバルに比べると車体は少し時代遅れです。 最大のライバルは、750ccの3気筒エンジンを用いたBSA/トライアンフ陣営で、車体は「現代のレーシングフレームの始祖」とも言える仕上がりでした。リアブレーキまでディスクシステムだったのです。 しかもBSAチームには、ホンダに乗って世界GPでチャンピオンなったマイク・ヘイルウッド選手も名を連ねています。 予選結果は、1位から3位をBSA/トライアンフの3気筒車が占め、最高速は264km/hと計測されました。続いて4位にホンダです。 決勝のスターティンググリッドには80台のマシンが並び、上位に真っ黒いレザースーツは1人もおらず、ライダーもバイクも、現在のような華やかなカラーリングです。ライダーは英米を代表するオールスター、バイクは日米英の最新モデルです。 53周で争われる決勝レースは、前半は様々なメーカーのバイクがトップに立つ混戦模様で、次々とトラブルや転倒で脱落するサバイバルレースとなりました。 中盤まで自分のペースを守り抜いた「CB750 RACER」に乗るディック・マン選手が先頭に出ると、そのままトップを守り抜いてゴールし、ホンダと「CB750 RACER」=「CB750FOUR」にデイトナ初優勝をもたらしました。