日本近代化の礎となった山口「萩の世界遺産」を巡り、明治維新の胎動を感じる
旧上級武家地の東側に隣接する旧町人地には、中・下級武士の屋敷や商家などが軒を連ねた。藩を代表して薩長同盟を締結し、明治新政府で要職を務めた木戸孝允の旧宅や、奇兵隊を率いた高杉晋作の誕生地などが残り、幕末マニアの聖地ともいえる場所。周辺には海の幸を生かした料理店やカフェ、土産物店なども点在するので、一息つく場所にも事欠かない。
海に面した城下町だったため、長州藩士の海防意識はとても高かったという。黒船の襲来に際して、攘夷(じょうい)論が一気に高揚したことや、他藩に先んじて軍艦や大砲など西洋式の軍備を整えようとしたのは、地政学的にもっともなことだと、現地を歩くと実感する。
(2)松下村塾
長州藩の幕末志士に大きな影響を与えたのが、思想家で教育者の吉田松陰(1830-1859)だ。幼少の頃から人並外れた秀才ぶりを発揮し、9歳の頃から明倫館で兵学を教え、19歳で師範となった。20歳になると諸国を遊学し、ついに脱藩。25歳で海外渡航を企て、浦賀(現・神奈川県横須賀市)に来航した米国軍艦に乗り込むが、失敗に終わった。 幕府に自首した後、萩に送られて獄中生活を送るが、27歳の時に生家にて禁錮を命じられる。親類や近隣の子どもを集めて講義をするうちに、私塾「松下村塾」を開く。尊王攘夷思想を軸として、儒教や兵学、歴史を教えた。
松下村塾の建物は城下町の東、松本川を渡った先の松陰神社内に保存されているので足を延ばしてみてほしい。その隣には松陰の実家で、幽閉生活を送った「吉田松陰幽囚ノ旧宅」もあり、両方が世界遺産に登録されている。 幕府が尊王攘夷主義者など反体制派を処罰した「安政の大獄」(1858年)に連座し、松陰は江戸で刑死。30歳の若さだった。
しかし、その遺志を継いだ若者たちが活躍し、日本の近代化を担う。松下村塾出身者は、塾生の中心だった久坂玄瑞や高杉晋作などが討幕運動で重要な役割を果たし、明治維新後は伊藤博文や山県有朋が内閣総理大臣を務めるなど活躍した。 松下村塾の出世頭といえば、貧農の出身だった伊藤博文だろう。父が足軽・伊藤家を継いだことで士分となったが、身分が低いために松下村塾の講義室には入れず、戸外で立ったまま聴講したという。 尊王攘夷運動に身を投じるも、1863(文久3)年に藩の命を受け、井上薫らと共に英国へと密航留学。帰国後は、開国派に転身する。高杉晋作らと共に挙兵して藩内の主導権を握り、武器の輸入や他藩との交渉で手腕を発揮。明治新政府で要職を歴任すると、1885(明治18)年に初代内閣総理大臣に就任した。松陰神社の南側すぐには、伊藤博文の旧宅と別邸が残るので、松下村塾と併せて訪問するのがおすすめだ。