負けてヘラヘラ笑う若手は叱り飛ばした。成績が悪いのに年俸が上がってびっくり・山崎裕之さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(40)
プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第40回は山崎裕之さん。ロッテで4番も務めたマルチな好打者ぶりを発揮し、埼玉移転で新たなスタートを切った西武では常勝軍団の土台作りに貢献しました。いぶし銀の輝きを放った二塁手は現役時代の話の中身にも渋さがにじみました。(共同通信=栗林英一郎) 【写真】「世代ナンバーワン左腕」と呼ばれた元巨人の投手は、なぜ万引を繰り返したのか 裁判から見えたその半生とは
▽かなわなかった甲子園大会での兄弟バッテリー 私の子どもの頃は少年野球チームとかが全くなかった。小学校から帰ったらランドセルを放り投げ、実家(JR上尾駅近くの和菓子店「伊勢屋」)の裏にあった造り酒屋の若い衆と一緒に野球をやりました。そこの大将が本当に野球好きで、若い衆が空いた時間に庭で野球をやっていても全くとがめられなかった。それが小学3、4年ぐらいじゃないですかね。 中学生になって野球部に入り、1年の春からレギュラーになりました。確かライトだったと思う。その後はピッチャーが多かった。藤田元司さんの投球フォームをまねた記憶がありますね。ジャイアンツでばりばり活躍されている姿を見て憧れた。野球部長が怖い先生でね。上尾高校で監督をやっていた野本喜一郎さん(西鉄などでプロ経験のある埼玉の名将)も時々、中学に見に来てくれた。 二つ上の兄が上尾高に進学したので、私もそこへすっと入りました。高校では、まずショート。それでピッチャーもやっていたんですけど、1学年上のピッチャーが北海道出身で夏が弱く、1年夏の大会は自分がほとんど放りました。兄がキャッチャーで、西関東大会の決勝で山梨代表の甲府工に負けました。勝っていたら兄弟そろって甲子園でやれたけれど、ピッチャーを続けてつぶれていたかもしれない。
プロ野球の選手になりたいなというのは、中学まではあくまでも願望。高校に入るとスカウトの方が来られて現実味を帯びてきました。最後の自由競争でした(山崎さんの高校卒業は1965年の春。同年秋に第1回ドラフト会議が開かれた)。スカウトは球場にみえたり、あるいは家へ寄って父親が話を聞いたり。3年夏の大会が終わってからですかね。 オリオンズに入団してからも、契約金(当時は破格の5千万円ともいわれる)をたくさんもらって入ってきた新人だということで、やはり視線も厳しいものを感じました。かなりの負担になりましたね。いろいろ騒がれたとは思います。出場試合は1年目が半分ぐらいで、2年目はけがで30試合足らず。3年目が100ちょっとで、4年目になって何とかこの世界で飯を食えるようになれるかなと。「自信がついた」まではいかないですけどね。 ▽逆シングルで捕ってのジャンピングスローに喜び 5年目の69年にショートからセカンドに回って、野球の面白さがだんだん分かってきた。二塁手というポジションは非常に面白いなと思いました。ショートの場合は送球の面で一段と「間」がないですよね。これはちょっと悪口になっちゃうんだけど、送球が若干それたりなんかしても、一塁手の榎本喜八さんが体を伸ばして捕ってくれない人でね。両手で捕りにいくためにベースから離れてしまうっていうのがあった。セカンドは捕球してからの送球も、ランナーがいなければ余裕がある。二塁キャンバス寄りの打球なんかは見せ場。逆シングルで捕ってジャンピングスローで刺すのに喜びみたいなのを感じるようになりました。参考になったのは高木守道さんでしたね。内野のキーマンになって、サインやなんかで外野に伝達するところを、かなり任されていました。