負けてヘラヘラ笑う若手は叱り飛ばした。成績が悪いのに年俸が上がってびっくり・山崎裕之さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(40)
ちょうど金田正一さんが監督になった73年から東京スタジアム(かつて荒川区南千住にあったロッテの本拠地)が使えなくなったんですね。ホームグラウンドがないわけですから、宮城に準フランチャイズを置いて、いろんな球場で試合をしました。下手をすると1カ月に2回ぐらいしか家に帰れない。私の子どもが、かなり小さい頃で「パパ、今度いつ来るの」って言われた。今じゃ笑い話ですけど。金田さんは所帯持ちには、例えば九州や大阪から仙台へ移動の時に「東京へ1泊してきていいよ。試合当日に入ってくれば」と配慮をしてくれました。 各球場の土が硬いとか軟らかいとか、常に気を付けていました。荒れていれば自分のポジションだけでもトンボをかけた。情けなかったのは、仙台の試合が雨で流れた時、高校の室内練習場を借りたこと。いろいろありましたが、あまり文句を言っていた選手はいないですよ。その環境に準ずるしかないっていうことで。金田監督になって、とにかくトレーニングも練習もきつかった。その代わり、監督の気遣いというか食事の面なんかでもガラッと変わりました。トレーナーもキャンプの時は3人ぐらいいた。練習はさせるけども体のケアもしっかり、というところがあったと思います。
▽現場の査定基準を選手に全部伝えていた広岡監督 ロッテの時に優勝を2度経験し、ある程度の年齢になって79年に移転で西武となったばかりのライオンズに行ったんだけれども、チームとしては全くの寄せ集め。若い選手も負ける悔しさのない選手が多かった。そこを痛烈に感じました。敗れた試合のロッカーで、洗濯物を誰が籠の中へ持っていくか、ヘラヘラしながらじゃんけんなんかしたりして。もう腹が立って怒ったんですよ。「おまえら負けて悔しくないんか」って。それから煙たがられました。 ベンチが望む結果を出せる選手が良い選手だいう自分なりの理解がありました。私は打撃で大した成績は残ってないんです。パワーヒッターじゃないし、そうかといって打率を上げる選手でもない。中途半端な選手だったんだけれども、練習ではいろいろ場面を想定しながら打つようにしていた。例えばエンドランのサインが出たと思って右方向へ転がすとか、ショートの守備位置が二塁寄りなら三遊間に引っかけたりとか。西武の晩年の頃だけれども、フリーバッティングの最後の球は同点でツーアウト満塁、フルカウントというのを頭に置きました。ボール球を振ったら駄目ですよね。ストライクとボールを見極めてボールになればサヨナラ。そういういろんな想定をしました。