負けてヘラヘラ笑う若手は叱り飛ばした。成績が悪いのに年俸が上がってびっくり・山崎裕之さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(40)
ゲーム展開で右方向へ進塁打を打たなきゃいけないとか、そういうのは100%、その気持ちにならないと意外と失敗したりするんです。広岡達朗監督時代の西武では、あの田淵幸一でさえ、ここという時にはチーム打撃をしましたね。それをみんながベンチで「ナイスバッティング」って迎える。やっぱりチームとして一つの塊になりますよ。団体競技はそういうところが非常に大事。 広岡さんは、例えば送りバントをきっちり決めたらプラス1点だとか2点だとか、そういう現場の査定を選手に全部分からせていましたね。フロントの方の査定はどうか分からないけども、現場はそういう査定をするということを。僕は8人の監督に関わってますけども、そこまで言ったのは初めてで、これはもう衝撃的でしたね。だから選手は指示に気持ちを100%向けられたと思います。言われた方からすると気持ちの切り替えができますよね。 私の成績が良くなかったシーズンがあったんですよ。「ちょっとダウンされるかな」っていうつもりで契約更改に行ったら、会社の評価、査定がライオンズの中で一番貢献しているということで年俸を上げてくれたんですよ。それにはびっくりしました。
× × × 山崎 裕之氏(やまざき・ひろゆき)埼玉・上尾高では投手兼遊撃手として1963年に選抜大会出場。65年に東京(現ロッテ)に入団し、70年のパ・リーグ優勝、74年の日本シリーズ制覇に貢献。79年に移籍した西武で82年から2年連続日本一に輝く。名球会入り条件の2千安打は83年9月に到達。84年限りで引退した。二塁手でベストナイン5度、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)3度。通算2081安打。46年12月22日生まれの77歳。埼玉県出身。