歴代Jチェアマンを振り返ると浮かび上がる村井満の異端。「伏線めいた」川淵三郎との出会い
「そのうち大東さんから大事な話があるから」
村井満がJリーグチェアマンの打診を受けたのは、2013年11月27日。Jリーグのオフィスが、東京・御茶ノ水の日本サッカー協会ビル(以後、JFAハウス)にあった時のことだ。そこからほど近い、すき焼きの「江知勝」が舞台である。 1871年創業の江知勝は、多くの文豪に愛されてきた名店として知られる(芥川龍之介、夏目漱石、森鴎外の作品にも登場する)。2020年1月31日、惜しまれながら閉店。明治時代にタイムスリップでもしたかのような、歴史の重みを感じさせる日本家屋はあっさり取り壊され、跡地にはのっぺりしたタワーレジデンスが建っている。 当日の出来事を村井はメモに残していた。以下、引用する。 《少し早く着き、上野から不忍方面に歩く。湯島天神を経由して、赤門から東大キャンパスへ。安田講堂裏から江知勝へ。》 《すでに両者は到着しており対面。仲居さんを遠ざけ、酒が入る前にしばしの歓談。盛岡訪問の件などを話す。》 村井を待っていたのは、当時チェアマンだった大東、そして専務理事の中野幸夫。村井は事前に中野から「そのうち大東さんから大事な話があるから」と聞かされていた。 「ひと通りの歓談後、大東さんから単刀直入に『村井に(チェアマンの)後任を託したい』と言われました。実はその時は、わりと冷静に受け止めていたんですよ。中野さんからの前フリで、薄々感じていましたので『ええっ?』という驚きはなかったです。加えて、もうひとつ、少し伏線めいたこともあったんです」
「伏線めいた」川淵三郎との出会い
「伏線めいたこと」とは何か。それは初代チェアマン、川淵三郎との出会いである。この年、村井は川淵と2回、顔を合わせている。 「きっかけは、浦和駅前のパルコにある多目的ホールでの『スポーツで豊かな浦和になるために』というトークイベントでした。そこでJリーグの理念を語っていただくべく、登壇していただいたのが川淵さん。6月29日の開催で、主催したのは『一般社団法人Jリーグの理念を実現する市民の会』です。私は会の設立時の理事でした」 2013年当時、村井はリクルート・グローバル・ファミリー香港法人の会長を退任し、自宅のある埼玉県さいたま市に戻っていた。1983年に当時の日本リクルートセンターに入社してから、ちょうど30年という節目の年。 間もなく53歳という村井の年齢は、一般的には「まだまだこれから」であろう。が、リクルートの企業文化に照らせば、後進に道を譲って新しいチャレンジをするタイミングであると、当人は捉えていた。 その選択肢のひとつに「大好きなサッカーに関わる」という考えもあったのだろう。川淵を招いてのトークイベントも、その延長線上にあったと考えれば合点がいく。もっとも、この時の村井は舞台の表に出ることはなく、あくまでも裏方に徹していた。のみならず、2時間に及んだ川淵の講演内容をすべて書き起こし、さらに細部に至るまで事実関係を確認しながら推敲を重ねた。1カ月に及ぶ作業の中、川淵の言葉を写経のように反芻したため、村井はJリーグの理念を自身の血肉にすることができたという。 苦心の末に完成した講演録は、秘書を通じて川淵に手渡されることとなる。「それでいったん、川淵さんとの縁は終わった」というのが、この時の村井の認識。それから3カ月が経ち、秘書を通じて「川淵が会いたがっている」という連絡を受ける。かくして村井は、ホテルオークラの中華レストラン「桃花林」で、川淵と会食することとなった。それが11月12日。チェアマン就任オファーの15日前のことであった。 「例の講演録について、川淵さんがいたく感動されていることを、その時に初めて知ったんですよ。『よくぞあそこまで、まとめてくれた』なんて、おっしゃっていましたね。この時は、雑談めいた話が多かったんですが、一方で『村井という人間は何者なのか』を知ろうとする、面接めいた質問もありました」