ハービー・山口の写真人生【前編:壁作らず交流したら幸せになれる】
「カメラマンになりたい」10年間のロンドン生活でつかんだもの
「半年で帰ってくるつもりでしたが、自分なりに自由に生きていいんだよっていう西洋の考え方がしっくりきた。当時の日本の教育は、勉強ができて良い大学に入って良い企業に入って、っていう決められたレールを走らせようとしていたと思います。でもロンドンでは、自分の決めた道でいいんじゃない?一流も二流も三流も関係ないじゃんっていう自由さを感じました。パンクロックで『何の学もないけど主張さえあれば俺たち生きて行けるぜ』みたいなのがあるわけです。貧乏暮らしでしたが居心地は良かった」 料理上手な日本人の友達がアパートの同じフロアにいたときは彼が作るものをちゃっかり食べていたが、一人のときはチャイナマーケットで玄米と醤油を買って梅干しや海苔をおかずにした。先が見えない中で約10年を過ごすことができたのはなぜか。 「若さじゃないですか。『どうにでもなるだろう』みたいな気持ち。現地で、70年代中期に日本人ミュージシャンのツトムヤマシタが主宰していた『レッドブッダ』というヨーロッパで高い人気を誇っていた劇団に入りました。ロンドンでは2ヵ月に渡るロングランで毎晩満席。さらにヨーロッパツアーに出てローマでは野外の仮設舞台でしたが、観客が1万5000人集まったと聞きました。通算100回の舞台出演をこなしましたが、そろそろ写真に集中しなければと劇団を辞め、そうしたら幸運なことに1ヵ月後、偶然にイギリスの若者が作った写真家グループに入れたんです。僕が唯一の日本人で、同世代の若者と大きな倉庫内に1人1人が部屋を持って、地下には大きな暗室もありました。損保会社がスポンサーとして文化活動をサポートしていたので家賃はタダ、フィルムや印画紙も使い放題。3~4年住みました。あの環境がなかったら私は写真を続けていられなかったと思います」 さまざまな国から映画を輸入する協会「ブリティッシュ・フィルム・インスティチュート」で日本語を英語に翻訳するアルバイトをしたこともあった。それがまた別の仕事へつながった。 「そこの人に『実は僕、カメラマンになりたくて』って言ったら、毎月映画界の重鎮を呼んでトークショーをしているから記録写真を撮らないかと。さすがロンドンだなと思ったのはジーン・ケリーやローレン・バコール、チャールトン・ヘストン、ナタリー・ウッドといった俳優や映画監督ならフランソワ・トリュフォーさんとかベルナルド・ベルトルッチさん、ジョン・シュレシンジャーさんなど超一流を呼ぶんです。若干25歳の僕が専属カメラマンとして会見やステージ上でトークをしているところを撮る。それが映画の新聞に載ってちょっと給料をいただけたんです」 写真家グループの写真展も終わり知り合いのところへ居候するうちに29歳になって、日本の音楽雑誌の仕事をするようになった。 「29歳くらいになって、日本の出版社のためにイギリスでミュージシャンを撮影していた日本人カメラマンが帰国しちゃうっていうことで後釜に入れたんです。先輩たちを見ていると人気バンドを撮ってもスライドをそのまま送っちゃうわけですよ。だけど僕は日本に送っちゃう前にミュージシャンに見せていたの。そうすると『お前の写真いいじゃん』って、僕に直接バンドやレコード会社から撮影のオファーがくるようになったんです」