井伊直弼はミスで弱音を吐く、案外人間らしい人? 京都に残る史料から見える人柄
小説やドラマで描かれる日本開国の英断シーンが「歴史改ざん」の産物だとしたら-。旧彦根藩主で江戸幕府大老を務めた井伊直弼の勇ましく、剛毅[ごうき]なイメージをひっくり返す史料が京都に存在することはあまり知られていない。不思議なのはそれが発見されて日の目を見るまで30年余りの歳月を要したこと。新史実発掘の舞台裏で何が起きていたのか。 【動画】井伊直弼が暮らした彦根城は国宝だ
発見者の井伊達夫さん(82)=京都市東山区=は建仁寺東方にある井伊美術館の館長。その名が示す通り旧彦根藩井伊家とゆかりがあり、「井伊の赤備え」と呼ばれる甲冑[かっちゅう]研究の第一人者でもある。
そんな井伊さんが元藩家老の子孫を訪ねたのは1960年代中頃のこと。「これは直弼さんのこと、いろいろ書いた秘密の本やさかい」。非売宣言する家人を粘り強く説得し、何度目かの訪問でようやく譲り受けたのが「公用方秘録[こうようかたひろく]」と呼ばれる機密文書の写本(通称・木俣家本)だった。
公用方秘録は直弼が大老に就任する前夜から約1年半の動向を側近の宇津木景福が中心となって記録したもの。1885(明治18)年に井伊家から明治政府に提出された公用方秘録の写本が広く知られていたが、奇妙なことに木俣家本の記述はそれと全く異なっていた。
井伊さんが特に驚いたのは日米修好通商条約が調印された1858(安政5)年6月19日の記述だ。井伊家提出の写本には、直弼が条約締結にかかわる政務を終えて屋敷に戻った後、宇津木と交わした会話がこんな風に記録されている。
◇ 宇津木 「日頃、朝廷を尊敬されていたあなたがどうして天皇の勅許を待たずに条約調印を命令したのですか」 直弼 「事態は急を要し、勅許を待っている余裕はない。国政は幕府に委任され、執政者には臨機応変の手段が与えられなければならない。勅許を待たなかった重罪は自分一人が引き受けよう」 ◇
描かれているのは幕政トップとして国の行く末を危ぶみ、無勅許で条約締結する責任を一人で背負おうとする直弼の姿。提出本写本の記述は多くの小説やドラマのベースになってきた。例えばNHK大河ドラマ第1作にもなった小説「花の生涯」(舟橋聖一著)や近年映画化された「桜田門外ノ変」(吉村昭著)でもこのエピソードを下敷きにしたとみられる場面が出てくる。