モンゴル出身者が見た中国流商談の卑劣な手口 儒教国家としての認識は改める必要がある
次の休日、日本企業の社員と私たちは美しい青海湖へ出かけ、彼らの計画は実行された。モンゴル人とチベット人が遊牧する青海湖へ向かうとき、日本のS部長が大きなリュックを背負っているので「こんな大荷物、どうしたんですか?」と尋ねると、大切な資料はみんな持ってきたと話していた。 中国側が盗み出せたのは、あまり重要でない技術資料だけだった。私は悪事の片棒を担ぐことにならなくてよかったと安堵した。 ガラス工場での経験は、日本と中国の関係について深く考える機会を与えてくれた。中国人の対日意識の問題とともに、日本人の対中意識にも問題があると気づかされたのだ。
私は1989年春に来日すると、中国を訪れた日本人から「非常に嫌な思いを味わった」という話をたびたび聞かされた。おそらくガラスメーカーの社長と似たような経験があるのだろう。 しかし「中国人には失望した」と嘆く日本人は、もともと誤った認識があった場合もある(中国を過大評価し、中国人に畏敬の念を抱いていたという意味で、である)。 ■『論語』を現代中国と結びつけてはいけない 中国人の理不尽な振る舞いに「それでも儒教国家の人間ですか。あなたの言動は孔子様の教えに反している」と怒ったところで、「孔子って誰だ」と返されるほうが多いだろう。
孔子も、中国にまずいない理想の人物像を語ったにすぎない。中国が君子ばかりなら誰も苦労しない。孔子も自分が生きていた時代の現実に失望し、将来の理想像を追い求めた。孔子の『論語』の教えに触れて、日頃の言動を省みたり、自分も君子になろうと考えたりするのは、世界中を見渡しても、日本人ぐらいではないか。同時に日本人が勘違いしているのは、孔子の時代はよかった、という見方である。 もちろん、『論語』や『大学』や『中庸』といった中国古典に示される、よき道徳観を否定する必要はない。ただそれは望ましい理想を語ったものとして、自らを高める指標にするだけならよいかもしれない。