豊臣秀長を弔い続けた藤堂高虎の「義理」立て
■豊臣秀長や旧主筋への「義理」立て 奉公先を転々としていた高虎ですが、秀長の家臣となった際には大和豊臣家が取り潰しとなるまで仕えています。 高虎は秀長の元で築城技術を磨く機会を与えられ、また千利休(せんのりきゅう)など文化人との交流の場に参加することで人脈を広げており、江戸時代に発揮する政治家としての素養は秀長の麾下で養われています。 大恩を感じていた高虎は、秀長が埋葬された大光院を生涯において援助し続け、その菩提を弔っています。後継者の秀保が亡くなったあとは、すぐに仕官せずに高野山に入っています。 また、嫡子のいなかった高虎は、秀長の養子となっていた丹羽長秀(にわながひで)の三男高吉(たかよし)を、自らの跡取りとして迎え入れています。嫡子高次(たかつぐ)が生まれたあとも、高吉を藤堂家の家臣の中でも特別な存在として残しています。 そして、秀長の娘を正室とした毛利秀元(もうりひでもと)とも懇意にしており、高虎はのちの毛利家の所領問題でも秀元の肩を持つ発言をしたと言われています。 このように、高虎は旧主秀長にまつわる者たちへの「義理」立てを続けていきます。さらに秀長以前に仕えた人物の縁者にも、同様の施しを続けていきました。 旧主織田信澄の子息昌澄(まさずみ)は豊臣秀頼に仕え、大坂の陣後に高虎の取り成しによって助命された上、徳川家に2000石の大身旗本として召し抱えられています。また、旧主磯野員昌(いぞのかずまさ)の孫にあたる行尚(ゆきなお)は、石田三成に仕えて最後まで付き従ったものの、戦後に高虎が召し抱えて大坂の陣で活躍しています。 ■家康から受けた恩への「義理」立て 高虎は目上の者から受けた恩に報いようとする傾向が強く、秀吉の死後は家康にそれが向けられるようになります。 家康との関係は、秀長の命で徳川邸の建設を主導した時から始まり、その後も手紙や陣中見舞いのやり取りを受けるなど、懇意にしていたと言われています。 家康側からも高虎の人間性と技能は高く評価されていたようで、江戸城の改築において石垣奉行などを任されています。また二条城の改修においても設計を任されるなど、幕府にとって重要となる城に関しては高虎が関わっています。 そして、豊臣家や西国大名たちへの抑えとして、藤堂家は伊勢・伊賀へ加増転封されます。また伊賀上野城や丹波亀山城の築城にも貢献しています。 大坂の陣では井伊家と共に先鋒を任され、八尾の戦いで大量の死傷者を出しながらも勝利し、5万石を加増されています。 しかし、こうした大坂の陣での積極的な貢献は、後世でのイメージ悪化に繋がっていきました。秀吉の死後、天下人となる家康との関係性を深めたことにより、裏切り者としての印象を強めてしまったためです。そのため、未だに高虎の才能や実力は適正に評価されていないと思われます。 ■「義理」を立てる難しさ 高虎は旧主筋の者や縁者など、関係性の深い者に対しては、赦免の取り成しや新たな仕官先の支援をしています。特に大恩ある秀長にまつわる人物には、手厚く行っていたようです。 高い評価を受けたことから、家康にも相応の「義理」を立てていきますが、後世の朱子学的な価値観とのずれから、イメージの悪化を生んでいったようです。 現代でも、周囲に「義理」を通して行動しているものの、組織のトップへの貢献が過度に見えると、媚びへつらっているというイメージを持たれる例は多々あります。 もし、高虎が大坂の陣の前に死去して、豊臣家の滅亡に関わっていなければ、もっと正統な評価を受けていたかもしれません。 ちなみに、高虎の負のイメージは、初代藩主を務めた津藩(現在の三重県津市)が幕末の鳥羽伏見の戦いにおいて方針転換した際に、「初代藩主と同様に忠義を捨てて、勝ち馬に乗った」と見なされた悪い印象に重ねられてしまっていると思います。
森岡 健司