豊臣秀長を弔い続けた藤堂高虎の「義理」立て
■恩に「義理」で応える藤堂高虎 藤堂高虎(とうどうたかとら)は、立身出世のために豊臣家を見限り、実力者であった徳川家康に媚びへつらうことで、国持大名に取り立てられたエピソードでよく知られる大名だと思います。 しかし、高虎は若いころから奉公先を転々としてきたものの、豊臣秀長(ひでなが)に仕えると、次代秀保(ひでやす)が死去するまで、大和豊臣家の維持発展に尽くしています。また、それまでの人間関係を大事にして、浪人となっている者を自家に迎え入れたり、再仕官先を世話したりしています。 こうして「義理」を大事にしていた高虎ですが、一方でそれがイメージの悪化も招いていたようです。 ■「義理」とは? 「義理」とは辞書等によると「社会において、立場上、また道義として、他人に対して務めたり報いたりしなければならないこと」や「血縁以外の者が血縁と同じ関係を結ぶこと。また、その関係」とあります。 「義理」を立てるとは、受けた恩義などに対して、それに見合う行為でこたえることを意味し、相手に恩返しを行うという意味となります。 高虎は恩を受けた相手だけでなく、その縁者にも「義理」を立てて、関係性を大事にしていきます。 ■藤堂家の事績 諸説ありますが、藤堂家は近江国(おうみのくに)藤堂村を出自とする土豪階級とされています。父虎高は三井家の出身で、武田家や長尾家に仕えた後、藤堂家の婿養子になったと言われています。 高虎は浅井長政(あざいながまさ)に仕官しますが事件を起こして逃走し、その後も阿閉(あつじ)家や磯野家に仕えるものの問題を起こして出奔しています。また次の織田信澄(おだのぶずみ)の元でも揉め事を起こしています。 その後、1576年に織田家の重臣で秀吉の弟秀長に300石で仕えます。秀吉の但馬平定における竹田城攻略で活躍し1000石取りに、三木合戦では別所家家老を討ち取り2000石となりました。そして賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いや紀州征伐での武功により、紀伊国粉河(きいのくにこかわ)で1万石の城主に、九州征伐の根白坂(ねじろざか)の戦いで宮部継潤(みやべけいじゅん)を助けて2万石となります。 1591年に秀長が死去すると、後を継いだ秀保にそのまま仕えて、文禄の役では大和豊臣家の水軍を率いて出征しています。 1595年に秀保が死去するとともに大和豊臣家は取り潰され、あらたに秀吉の直臣となると、伊予国板島7万石の大名となります。さらに慶長の役での武功により、1万石を加増されています。 関ヶ原の戦いでは東軍に属して活躍し、戦後に伊予国今治・宇和島で合計20万石を得ています。1608年には、大坂の抑えとして伊勢国・伊賀国を領し、22万石の国持大名となります。 高虎の行動には、立身出世を念頭に置いた打算的なものもあったと思われますが、損得を省みないで「義理」を立てたものも多く見られます。