同期たちに「嫉妬していた」 無名からクラブの伝説へ…青山敏弘の運命を変えた出会い【コラム】
伝説のスーパーショットに指揮官も「大スターになったな」
ある日のトレーニングで佐藤寿人が青山にこう言った。「トシ、ちょっとパスを出すタイミングが早すぎた」。だが、この時、ペトロヴィッチ監督はこう言った。「ヒサ、アオのタイミングでパスを受けてやってくれ」。青山の心が揺れた。自分のプレーが認められた。初めてそう感じた瞬間だった。「アオの素晴らしい可能性は、練習を見ただけですぐに分かった」とペトロヴィッチ監督はそう言った。 「ただ、当時の彼には自信がなかった。常に、何かを怖れていた。だから私は、彼の心を解放してやりたいと思っていたんだよ」 7月19日、瑞穂陸上競技場で行われた名古屋グランパス戦で彼はリーグ戦初出場初先発。3-2で勝利したあと、戸田和幸が「今日はアオに聞いてやってください」と笑顔で促した。決して、パーフェクトなプレーができたわけでもない。だが、チームの浮沈をかけたペトロヴィッチ体制の初戦で先発し、しっかりと戦い抜いたことは紛れもない。この試合以降、指揮官は青山をレギュラーとして重用した。 8月23日のアウェーガンバ大阪戦、北京五輪を目指すU-22日本代表招集の影響で3試合ぶりの先発となったこの試合で彼は決定的なパスミスを犯し、3失点目を献上。彼の交代後、広島は2点を返したが、及ばなかった。 「俺のせいで負けた」。消沈する若者に戸田主将が声をかける。「アオ、メシを食いに行くぞ」。試合のことは何も言わず、冗談を言いながら食事の場を盛り上げるキャプテンの姿に、陰鬱になっていた青山の気持ちは少しずつ晴れた。 「自分にも他人にも厳しい戸田さんが、優しく接してくれた。それはきっと、自分を認めてくれていたから」 ボランチとして目標にしていた選手の温かさに救われた青山の様子を見て、指揮官は中2日での鹿島アントラーズ戦に彼を先発させる決意を固める。後半4分、約35メートルの距離。青山は迷いなく右足を振った。ボールの芯を射抜いたミドルショットは名GK曽ヶ端準の頭上を超えてググッと落ちる。 パサッ。ゴールネットが揺れる音が響く直前にはもう、若者は両手を広げた。「自分が1番驚いた」というスーパーショットが青山敏弘のリーグ戦初得点。2002年の全国高校サッカー選手権岡山県大会決勝での「幻のゴール事件」の当事者であったことも手伝い、試合後には記者たちが大挙して彼を囲み、コメントを欲した。 「アオ、大スターになったな」。そう言って笑ったペトロヴィッチ監督を見て、若者は言う。「ああいう監督の表情が見たかったんです」。 18年前、青山敏弘とサンフレッチェ広島に起きたさまざまなドラマ。これこそ伝説の始まりであり、すべての原点なのである。 [著者プロフィール] 中野和也(なかの・かずや)/1962年生まれ、長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート中国支社・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集、求人広告の作成などに関わる。1994年からフリー、翌95年よりサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するリポート・コラムなどを執筆。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。著作に『サンフレッチェ情熱史』『戦う、勝つ、生きる 4年で3度のJ制覇。サンフレッチェ広島、奇跡の真相』(ともにソル・メディア)。
中野和也 / Kazuya Nakano