同期たちに「嫉妬していた」 無名からクラブの伝説へ…青山敏弘の運命を変えた出会い【コラム】
「チャンスだ」…新外国人監督の就任とともに開けた視界
前十字靱帯断裂からの復帰を目指している時、リハビリと同時に自ら工夫して筋トレのメニューを組み、徹底して自身の身体を磨き上げた。当時、「筋肉をつけすぎると身体のキレがなくなる」と言われていた時代である。実際、広島ではまだ居残りで筋トレをやっていた選手がほとんどいなかった。だが、青山はそこに自分を賭けた。サッカーができない状況なら、身体を鍛えるしかないと、情熱を傾けた。 以前は「もやし」と揶揄されていた彼の肉体は、鋼に変わった。「お前、凄いな」。先輩がそう言ってくれることが、嬉しかった。 「何も見てくれないことほど、きついものはない。でも、筋トレを徹底して身体を作ったことで、先輩方が驚いてくれることが嬉しくて、またトレーニングに励んだ。そうやって作った身体が、自分の土台になったんです」 ペトロヴィッチがやってきた時、青山は「チャンスだ」と思った。新監督になれば選手の評価はリセット。特にペトロヴィッチ監督は当時、広島の選手たちのことはビデオで見ただけで、詳しくはまだ何も知らない。「この好機にすがるしかない」。それは青山だけでなく、試合に出ていなかった多くの選手たちの認識だった。 トレーニングは甘くなかった。ほぼ1日おきにトレーニングマッチが2試合組まれ、全員がほぼ90分間のプレーを課せられた。タッチライン際に新監督はずっと立ち、選手たちに対して激しい言葉で叱咤激励を飛ばす。試合がない日のトレーニングは約2時間ずつの2部練習でほぼ実戦形式。少しでも気を抜いたプレーを見せると厳しい叱責が飛ぶ。6月~7月、酷暑が日本を覆うなか、ペトロヴィッチ監督のトレーニングは壮絶を極めた。シャツを絞ると滝のように汗がドッと流れ落ち「肺が火傷をしたような感覚に襲われた」と青山が言うほどだった。 ペトロヴィッチ監督のトレーニングは肉体だけを鍛えたのではない。「常に3つ以上の選択肢を持て」が口癖。青山が何げなくクサビを入れた瞬間、新監督はトレーニングを止め「アオ、決して悪い選択ではないが、右サイドが空いているのは見えていたか。ヒサ(佐藤寿人)が裏を狙って飛び出したが、そこは見えていたか。見えていて、あえてクサビを選択したのならいいが、それなら少しタイミングをずらして蹴るという選択肢もあるぞ」と語りかける。アイデアを押しつけることはないが、「頭をフル回転してサッカーをするんだ」というコンセプトを徹底的に叩き込んだ。