「丸ビル将軍」震災後に東京近郊の土地買い占め巨利 近藤荒樹(上)
「丸ビル将軍」と呼ばれた近藤荒樹。大正から昭和にかけて、相場師、金融業者、実業家として名を馳せ、戦後は長者番付にも名を連ねる資産家となりました。 現在の一橋大学を出て、三菱合資から独立し、金融界に入った「インテリ相場師」。日魯株で大きな山を当て、関東大震災後に東京近郊の土地を、第2次世界大戦後に旧財閥の株を買いまくり、巨利を得ました。 しかし必ずしも順風満帆な足取りではありませんでした。独立後は、鐘紡新株で調子に乗りすぎて失敗。自殺一歩手前まで追い込まれ――。市場経済研究所の鍋島高明さんが、そんな近藤の前半生を解説します。2回連載「野心の経済人」近藤荒樹編の第1回です。
現一橋大卒の「インテリ相場師」
近藤荒樹(あらき)のことを世間では「丸ビル将軍」と呼んだ。それは、近藤が東京駅前の丸ビルに陣取って采配を振るっていたからである。歴代の相場師研究家、生形要(うぶかた・かなめ)はその著「相場師」(日経新書)の中で、近藤についてこう記している。 「近藤は若いころ、三菱銀行頭取の串田万蔵(1867~1939年)に可愛がられ、株の相場では山一証券社長の杉野喜精(1870~1939年、後に東京株式取引所理事長)に師事するなど、恵まれた環境にあった。近藤が相場でコツを学んだのは、この杉野の助言によるところが大きかった」 生形は相場師を3つのタイプに分けている。勘と度胸で勝負する「感覚型」、人の意見など聞かず、自らが納得できる理論をつくり上げて行動する「理屈型」、そして「慎重型」で、他人の意見は尊重するが用心深く、着実に行動するタイプ。どかっと大もうけすることもない代わりに、大損もない。 生形は近藤を「慎重型」とみているが、若いころは豪快に張って無一文になったこともある。 近藤の伝記や逸話には「インテリ相場師」といった表現に必ずぶつかる。それは彼が一橋大学(当時は東京高等商業学校)から三菱合資会社というコースをたどっているからだろう。