「丸ビル将軍」震災後に東京近郊の土地買い占め巨利 近藤荒樹(上)
シベリア横断の陸軍・福島大将の書生に
近藤は、現在の東広島市志和町で農業を営む近藤喜太郎の長男として生まれた。明治39(1906)年、日露戦争に勝利した後の大バブル景気の最中に上京、陸軍の福島安正(1852~1919年、長野県出身)大将の門を叩き、書生となる。 福島安正といえば、明治26(1893)年ころ、ドイツのベルリンから帰国するにあたり、遠くシベリアを横断して満州に入り、ロシアのウラジオストクまで全行程1万4000キロを単身馬に乗って踏破したことで知られる。当時、青少年の間では英雄視され人気の高かった人物。 この福島大将の玄関番として住み込んだことが、後に近藤が「丸ビル将軍」と称えられる糸口となる。近藤は雑誌のインタビューに答えてこう語る。 「福島大将は普通の将軍と違って非常に交際の範囲が広く、あらゆる知名の人に知己があった。私は大将の使いでこれらの名士の家に出入りすることが多かった。それがために、一本立ちになっても、名刺を出して名乗りを上げなくても、『今日は』と裏口から入り込むことができた」
鐘紡新株で失敗 “自殺一歩手前”に
この“福島コネクション”を最大限に利用して近藤の金融道が始まるが、玄関番を勤めながら近藤は成城中学校から東京高商に進み、三菱合資(明治26年設立の持株会社、三菱財閥の総本山)の鉱山部(現三菱マテリアル)に入る。大正2(1913)年、第1次世界大戦勃発の前年のことだ。 近藤は大正9(1920)年(一説には同11年)、サラリーマン稼業に見切りをつけ、退職金6000円を元手に金融業「近藤荒樹営業所」を旗揚げする。 近藤荒樹営業所が躍進するのは大正12(1923)年の関東大震災後である。「これからは郊外が発展する」とにらんだ近藤は、都下の国立市一帯の土地を買い占めた。坪(3.3平方メートル)当たり3~4円で約50万坪の土地を手にし、昭和3~4年ころにはざっと10倍40円前後で売り放った。世界大恐慌(1929年)に突入する直前で、この莫大な利食いで土地成金とはやされる。 さらには運送界で活躍していた宇都宮回漕店の店主・宇都宮金之丞(きんのじょう)が経営していた富士生命保険会社を売りたいという話を聞きつけると、これを大阪の財閥・藤田組に橋渡しして巨額の報酬を手中にするなど抜け目がない。 こうした儲けを株に注ぎ込む。当時人気の高い新鐘(鐘紡新株)で儲けはさらに膨らんだ。しかし、近藤も人の子、調子に乗り過ぎた。「全財産を整理したが、それでもなお3万~4万円ほどの未済が残り、あちこちに迷惑をかけ、自殺一歩手前の気持ちに追い込まれた」(「相場師」) =敬称略