山崎豊子生誕100年:壮大重厚な作品世界への誘い
「明日を信じて生きる心の中の沈まぬ太陽」
8年かけて『大地の子』を書き終えた時、山崎は「精も根も尽き果てた」と言う。そこで自分へのご褒美として、若い頃の憧れだったアフリカの最高峰キリマンジェロの観光に出かけ、ケニアの首都ナイロビで日本航空の現地駐在員O氏に案内役を頼んだ。 この時、彼から過酷な身の上を聞かされる。昔、労働組合委員長を務めた時代に経営陣と対立し、以後、報復人事でパキスタンのカラチ、イランのテヘラン、そしてナイロビへと、家族とも切り離されて長期間のへき地勤務を強いられているという。山崎いわく「流刑」である。 山崎は文筆稼業の引退も考えていた。『大地の子』を超える作品はもう書けそうにない。しかし、そこは作家の業というものだろう。O氏から根掘り葉掘り来し方を聞き出すことになる。それが『沈まぬ太陽』として結実する。 同作の誕生にはもう一つのエピソードがある。山崎は、長年にわたって信頼する出版社の編集者で、重役となっていた人物のところへあいさつに出向いた。するとこう言われたという。「芸術家に引退はない。書きながら柩(ひつぎ)に入るのが作家だ」。続けて「時に私の死期も近いから、生前の香典として香典原稿を一作いただきたい」と頼まれた。山崎は私に「香典原稿と言われたら書かないわけにはいきません。うまいこと言ったものです」と笑っていた。 日本航空から「国民航空」と名を変えた『沈まぬ太陽』では、主人公・恩地元が海外流転後、ようやく本社に戻ったものの、御巣鷹山事故が起こる。経営再建のために社外から会長が迎えられるが、醜い権力闘争が勃発し、会長を補佐する恩地もまた巻き込まれていく。 主人公は、企業の利益追求の犠牲となっても、なお節を曲げずに生き続ける人物として描かれる。『沈まぬ太陽』というタイトルは、アフリカで見た夕陽からヒントを得た。「どんな逆境であっても、明日を信じて生きる心の中の沈まぬ太陽を持ち続けていかなければならないという意味を込めて」と彼女は語るのだ。 2013年から週刊誌に連載中の『約束の海』が絶筆となった。彼女は最期まで書き続けた。私が知る山崎豊子は、理不尽なことに対して真っすぐ怒る。文壇とは交わらず、ひたすら原稿用紙に向きあう孤高の人であった。没後、スケールの大きな彼女の作風を超える作家はいまだに現れていない。 参考文献 『作家の使命 私の戦後』『大阪づくし 私の産声』『小説ほど面白いものはない』(いずれも山崎豊子著、新潮社刊)
【Profile】
滝野 雄作 書評家。大阪府出身。慶應義塾大学法学部卒業後、大手出版社に籍を置き、雑誌編集に30年携わる。雑誌連載小説で、松本清張、渡辺淳一、伊集院静、藤田宜永、佐々木譲、楡周平、林真理子などを担当。編集記事で、主に政治外交事件関連の特集記事を長く執筆していた。取材活動を通じて各方面に人脈があり、情報収集のよりよい方策を模索するうち、情報スパイ小説、ノンフィクションに関心が深くなった。