二十歳のとき、何をしていたか?/堀内健 あの頃の友達との笑いを、 大人になってもやり続ける。 テレビスターに憧れた、永遠の中学生。
コンビか、トリオか。 本気で悩んだ運命の分かれ道。
渡辺プロダクションのオーディション会場には、やけに声の大きな若者がいた。 「それが(原田)泰造です。地元の友達とパープルンというコンビを組んで入ってきていて、役者の養成所にも通ってたから声が出てたみたい。同期で仲も良くて、1週間に1回のネタ見せに通いました。そしたらある日、泰造の相方が辞めることになったんです。じゃあ二人で1回ネタ作って、駄目だったらやめようって組んだんですよ。そこから今まで続いてます(笑)」 コンビ名はフローレンス。運命かと思うくらい、二人のバイブスは合っていた。 「これまで泰造みたいな人っていなかったんですよね。僕以上に知らない人に話しかけるし、地元の友達とは違う面白さを持っていて。夜通し『朝まで生テレビ!』のパロディをやり合うとか、僕がミルク、泰造がクルミってキャラで妖精ごっこするとか、ネタ作り関係なく一緒にいて。中学の日々が戻ってきた感覚があったんです」 コンビを組んで都内のライブを回り、テレビ朝日の深夜のネタ番組にも出演した。 「お笑いライブブームが来始めて、僕たち、ライブで少しは名前も知れてきたし、初めてのテレビもすっげえウケて、いい感じだぞと。でも勝ち抜き番組で高校生のコンビに負けて、すっげえ落ち込んでたときに、泰造が『もうダメだ。潤ちゃん入れよう』って言い出して。青天の霹靂ですよ」 二人より1年早く渡辺プロダクションに所属した名倉潤さんは、ジュンカッツというコンビを組んでいた。当時の堀内さんが抱いた印象は「なんでこの人、売れてないのにこんな偉そうにすんだろう(笑)」。確かに先輩の加入は緊張する。 「泰造は、ツッコミがいれば笑いどころができるとか、色々考えたんでしょうね。でも僕は人生でいちばん悩みました。泰造が大好きだったし、ずっと二人でやるのがベストだったんです。先輩だし、気を使うし、もう自由にやれなくなっちゃうのかって。ヒロちゃんに相談したら、『それぞれいいほうと悪いほうを書き出して、いいほうが多いのを選べばいいじゃん』って。それで確かに3人がいいってわかったんです」 24歳でネプチューンを結成し、26歳で人気番組『ボキャブラ天国』に出演。以来、途切れることなくテレビに出続けている。 「僕も泰造も潤ちゃんも“お笑い芸人”じゃなくてテレビスターになりたかったんですよ。ドラマも歌もお笑いもやる、みたいな理想がバーンとあって。でもそのうち、あれも無理、これも無理、ってわかってくる。20代はそんな感じだった気がします」 でも29歳で『笑う犬の冒険』が始まった頃は、毎週コントで大活躍。思い描くお笑いができていたのでは? 「いや、まだまだって思ってましたよ。僕は自分がやりたいことをやると変な方向に行くし、人の意見を聞いて、プロデュースしてもらうほうがうまくいく傾向があるみたい。それに、やりたかったお笑いが今日できても、次の日にはできない。その繰り返しなんですよ。その日その日が精いっぱいだから、今も正解がわかってないかも」 あのキャラは自分が作ったもの、と言い切らず、いろんな意見を聞いて作った、と言えるのが、堀内さんの強さだと思った。二十歳の頃の自分は、今どう見えている? 「いやあ羨ましいです。何とかなるって本気で思ってましたもん。ポジティブっていうか、未来が広がってた。あの頃もっと頑張ってればって思うこともありますよ。でも純粋にテレビに出たい! と思って、出られたわけだし。うん、楽しかったですね」
AT THE AGE OF 20
泰造さんとフローレンスを結成した21歳の頃に撮影した宣材写真。「自分で言うのもなんですけどルックスがいいって思われて、“第2の中山秀征”って感じで採用されたんです。でもダンス、お芝居、発声とレッスンを外されて、最終的に泰造がいるお笑いのグループに入れられて」。確かにキュートな顔立ち。学生時代はモテたのでは? 「全然! 『それでよぉ』とかオラオラしたほうが絶対モテるのに、変なことやって女の子をチラチラ見る、しかできなかったから。幼かったですねえ」
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