二十歳のとき、何をしていたか?/堀内健 あの頃の友達との笑いを、 大人になってもやり続ける。 テレビスターに憧れた、永遠の中学生。
恥ずかしいけど目立ちたい。 小・中学校時代が笑いの原点。
冠番組での活躍はもちろん、ゲスト欄に「堀内健」とあると俄然期待してしまう。急に二重になったり、バク転をしたり、♪ホトシュールと歌い出したり、奇想天外で目が離せないからだ。20代からテレビに出続けるベテランなのに、「ホリケン」と親しみを込めて呼べる親近感。一方で『IPPONグランプリ』で過去4回の優勝経験を持つ実力者でもある。魅力の塊みたいな堀内さんだけれど、どんな二十歳の頃を過ごしたのだろう。経歴を紐解くと、1969年の横須賀生まれ。教師の両親と妹の4人家族で、想像どおり活発に育ったという。 【取材メモ】パンを頬張ったり、「これはよくヒロちゃんがやっていたポーズ!」とギュンギュン動いたりと終始エンターテイナーだった。一撃必殺の笑いを繰り出す戦闘力の高さがあるのに、謙虚で、ニコニコ楽しそうで、華がある。これがテレビスターか!と震えました。 「父親が怖かったから家ではおとなしくして、学校ではっちゃけてましたね。変なことをやって目立つことに生きがいを感じてました。返事を大きくするとか(笑)」 テレビとラジオに勢いがあった’70~’80年代。堀内さんも『オレたちひょうきん族』を見て友達と「あれ見た?」と盛り上がり、中学に上がると『お笑いスター誕生!!』でブレイクしたとんねるずに夢中になった。 「僕だけが目立ってるわけじゃなくて、クラスみんなが仲良くて、一緒にふざけてて。自分たちだけがわかる学校のネタもありました。特に仲のいい4人グループのヒロちゃんが最高に面白くて。ギャグもオリジナルだし、授業中にマンガとか描いちゃうし」 中学卒業後、ヒロちゃんは長野の学校に進学して離れ離れに。高校生活も楽しかったけれど、友達は思春期を迎え、小・中学校の頃のようなノリはあまり生まれない。堀内さんの中である思いが膨らんでいった。 「中学時代みたいなことを、大人になってもやりたいなと思ったんです。それで(明石家)さんまさんやとんねるずさんに憧れたのもあったし、テレビに出たいなと。でも今みたいに養成所もないから、方法がわからない。それに『健がお笑いかよ』って言われる気がして誰にも言えなくて。目立つのは好きだけど、恥ずかしがり屋で前に出るタイプじゃなくて、ずっと隠してました」 兎にも角にも東京に出なければと、大学を受験したが、全落ち。浪人生になるも、予備校の夏期講習を勝手にキャンセルし、返金されたお金はパチンコで使ってしまった。結局大学は諦め、市ヶ谷の東京観光専門学校(当時)へ。なぜ観光? 「『男女7人夏物語』で、さんまさんがツアコン役でカッコよかったんです。それでお笑いとツアコンの二択で悩んで(笑)」 と言いつつ、卒業後は観光の職には就かず、渋谷の東横のれん街の『モロゾフ』で準社員のような形で働くことに。それで、阿佐ケ谷の青梅街道を渡った先の、家賃2万4000円のアパートを借りた。二十歳の堀内さんは、念願叶って東京で一人暮らしを始めたのだ。でも、ここまでお笑いへのアプローチは何もしていないような……。 「そうなんですよね(笑)。本気で何とかなるだろうと思って、ブラブラしてました。でも21歳になった頃かな、自分で何かやんないとダメだって気づいて。それで『デビュー』ってオーディション雑誌を見て、芸能事務所に片っ端から電話したんです」 ヒロちゃんが学校でやってたことをやれば売れる、と思い一緒にやらないかと声をかけたが、「俺はいいよ」と断られ、ひとりでオーディションを受けに行った。 「人前でネタなんてやったことないから、足が震えちゃって。プロダクション人力舎、太田プロダクション、3つ目の渡辺プロダクション(現ワタナベエンターテインメント)でようやく慣れて、引っかかりました。披露したネタですか? 『1人で胴上げされながら浣腸される人』とか『自動改札を突破する男』とか(笑)」