グローバル世界を未来に導くにはどんな思想や行動が必要か―スラヴォイ・ジジェク『戦時から目覚めよ: 未来なき今、何をなすべきか』橋爪 大三郎による書評
◆リベラルなリアリズムの思想家の希求 ジジェクは現代哲学を牽引する思想家。一九四九年生まれ、スロヴェニア出身で社会主義の暗部も熟知している。ポストモダン文体で煙に巻かれるのかと用心しながら読むと、真剣にウクライナ問題と格闘している。論点も盛り沢山で具体的だ。 ロシアはなぜ侵攻した? 西側が追い詰めたのか。確かにNATOから圧力を受けた。ウクライナ政変をアメリカの仕業と疑った。でも根本原因はロシアの抱く「妄想」だ。 プーチンは考えた。レーニンがいけない。ソ連の各共和国の主権を認め、ウクライナはネイションに目覚めた。スターリンは正しい。ウクライナはロシアの一部で、東欧も勢力圏だとした。ナチスと戦い祖国を守った。そもそもヨーロッパは存在すべきでない。世界で主権国家はアメリカ、ロシア、インド、中国だけ。あとは主権のない植民地。ロシアは本来の領土を奪還しているだけだ。大ロシア主義という妄想である。 この妄想は、ヨーロッパへの憧れと恨みの屈折した産物だ。それが生まれた歴史の経緯は複雑で、本人に制御不能の無意識になっている。 だから西側諸国は、ロシアに幻想を抱いてはならない。プーチンは一存で侵攻を決めた。ウクライナが戦っているのは立派だ。西側の支援なしには戦い続けられない。妄想を抱えた権威主義的国家と対峙(たいじ)せよ。 でも西側は世界で評判が悪い。グローバルサウスの国々は植民地の記憶やグローバル経済の蟻地獄に苦しんでいる。ロシアは≪ウクライナへの攻撃を非植民地化作戦と称し…第三世界の味方としての地位を確立する戦略を進めている≫ところだ。 冷戦が終わり、世界は手を携えて気候変動など人類の課題に立ち向かうはずだった。ところがパンデミックが襲うと各国は自国防衛を優先した。ウクライナで戦争が始まった。核戦争の危険に、地球環境どころでなくなった。混迷の世界が直面する脅威を、ジジェクは黙示録の四騎士≪疫病、戦争、飢餓、死≫にたとえる。そして五番目は、なおも破滅に向け突き進む人類自身なのだと。 ではどうする。行動しよう。 ポストモダン系の言論は鮮やかだが、資本主義を結局どうしたいのか曖昧で尻すぼみが多い。ジジェクはひと味違い、もっと踏み込む。≪われわれは…原理主義右派と、自由主義…左派という、ふたつのクソに挟まれている≫。要はどちらも≪グローバル資本主義体制を破壊しているふりをし≫ているだけなのだ。 ウクライナ戦争が始まると、青い目のヨーロッパ人が殺されるのを見るのはしのびない、とコメントが出た。人種差別まる出しなのを気づかない。≪民族的…宗教的対立は、…グローバル資本主義に最も適合した形の闘争≫。それに抗するには≪世界の労働者階級が国際的な連帯・団結を強める≫しかない。≪西側の自由資本主義ともロシア=中国の権威主義とも異なる新しいグローバリゼーション実現の道≫を切り開こう。 平和主義左派は、ロシアを追い詰め過ぎるなと言う。とんでもない。≪ロシアが恐ろしく危険な破綻国家である実態を認め…そのように扱うべき≫だ。≪プーチンに真の意味で立ち向かうためには、世界の残りの…国々≫に対する≪人道支援の仮面をかぶったあらゆる新植民地主義を…根絶やしにする必要がある≫。 「ウォーク」(先進的で目が覚めていること)を称する左派にも批判の目を向けよう。ポリティカル・コレクトネスのやり過ぎもキャンセル文化もだめ、とジジェクは言う。たとえば男女両方をtheyとよび、heもsheもやめるというやり方は、文化としての性別をなくしてしまう。それにトランスの男性や女性はむしろheやsheとよばれるのを好むのだ。寛容をめざすはずが、≪新たなアパルトへイト≫になってしまう。 グローバル世界を未来に導くにはどんな思想や行動が必要か。具体的な結論までは書かれていない。代わりに本書には、そのヒントがぎっしり詰まっている。グローバル資本主義の勝ち組富裕層にきちんと課税すること。難民や移民のように国境を越える人びとを支援すること。「ロシアは偉大」「アメリカ第一」みたいな讃美(さんび)でなく、自国の問題点を厳しく批判できること。平和が第一だからと、ウクライナに即時停戦や領土割譲を提案したりしないこと。核戦争の脅威やパンデミックや文明の衝突にまどわされないで、地球環境を守る人類共同の課題を忘れないこと。世界中の権力者が裏でつながっている実態を暴いて罪に問われたウィキリークスのジュリアン・アサンジを見捨てないこと。イスラエルで≪パレスチナ人を含む大規模な民主主義連合を提案すること≫、…。 ジジェクはドイツの緑の党の姿勢を支持するという。ウクライナを支援し、エネルギー危機は環境に優しい産業を興すチャンスと主張するからだ。彼の姿勢は、リベラルなリアリズムと言えるだろう。日本にいないタイプの思想家だ。せっかく学んだ哲学(人類の共通言語)を武器に知力の限り、目の前の課題と全力で取り組む。対立や分断があろうと人類の連帯を希求する。文明に敬意を払い未来を志向する。見習いたい。 [書き手] 橋爪 大三郎 社会学者。 1948年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。執筆活動を経て、1989年より東工大に勤務。現在、東京工業大学名誉教授。 著書に『仏教の言説戦略』(勁草書房)、『世界がわかる宗教社会学入門』(ちくま文庫)、『はじめての構造主義』(講談社現代新書)、『社会の不思議』(朝日出版社)など多数。近著に『裁判員の教科書』(ミネルヴァ書房)、『はじめての言語ゲーム』(講談社)がある。 [書籍情報]『戦時から目覚めよ: 未来なき今、何をなすべきか』 著者:スラヴォイ・ジジェク / 翻訳:富永 晶子 / 出版社:NHK出版 / 発売日:2024年05月10日 / ISBN:4140887206 毎日新聞 2024年9月7日掲載
橋爪 大三郎
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