『占領都市』を起点にひも解くエンプティショットの映画史。ホロコーストをテーマにしたドキュメンタリー作品を考察レビュー
266分の尺をもつ「未完の映画」
「1940年、ドイツ駐留軍は街灯や建物の消灯を命じる。連合軍に街の明かりを利用されないためだ。特別な遮光用紙やカーテンが販売され、違反者には罰金を科した。多くの人が道に迷い、運河に落ちて、1940年には55人が溺死した。戦時中、天文学の本が人気だったのは、夜、星がはっきり見えたからだ」。 ビアンカ・スティグ――ターのテクストはこのように時として詩的な表現も垣間見える。しかし、LOといったレジスタンス組織への言及とともに、NSB(オランダ国民社会主義運動)といった親ドイツ的なファシズム政党の足跡についても多くの尺を割いている。 オランダは、そしてアムステルダムは、単なる被害者ではないのだ。時として隣人の悲劇を見て見ぬふりをし、あまつさえ率先してファシズムに加担さえした。この両義性の提示こそ、『占領都市』の重要な側面である。 重罪の加担者をも視野に含めた視線とともに映像が続いていく。現代アムステルダム市民の平和かつ豊饒なる表情や姿は、まるでエックス線によって透かされて、だんだん透明になっていく運命にあるように思える。その意味ではこの映画は、『夜と霧』を貫通し、さらには『インディア・ソング』と『ヴェネツィア時代の彼女の名前』とを貫通した果てに、死刑となった連続殺人犯・永山則夫(1949-1997)の足跡を足立正生らがカメラに収め、ひたすら風景のみによるエンプティショットの群れとして提示してみせた『略称・連続射殺魔』(1969)の再現を夢想しているように思える。 都市の情緒性をにじませてきた路面電車の映像が、ラストに来て予想だにせぬ緊張感を帯びてくる。早朝、始発電車が車庫を出発し、ひとけのない市内を走行し始める車窓ショットが、ユダヤの民を強制収容所へ連れ去る収容列車の記憶を呼び覚ましていく。いや、この無人の車内には、不安と恐怖に怯える人々の心霊が不可視の状態で写り込んでいるにちがいない。陰鬱な無伴奏チェロの音色が鳴り響き、霊たちの心情に寄り添っている。路面電車はやがて洗車施設に入っていき、泡立つ洗浄マシーンの中に晒される。 鉄道職員たちにとってはごく日常的な光景だと言えるだろうが、4時間以上を見てきた私たち観客にとって、それは《シャワー室》の記憶を呼び覚ますのにじゅうぶんである。透かし紋様のレトリックで占められた本作が、最も歴史の第一人称に近づいたのが、この路面電車の一連だったのではないだろうか。 最後に、筆者の見解を述べておきたいと思う。『占領都市』は266分もかかる超大作であるが、筆者に言わせればこれは未完の映画である。アムステルダムにおけるユダヤ人迫害とジェノサイドの記憶を呼び覚ますだけでは、歴史の半面しか語ったことにはならないからである。 第1部はアムステルダム編でよいだろうが、ホロコーストの被害者たちの子孫がこんどは逆の立場に転じた『占領都市 第2部ガザ、ヨルダン川西岸編』が、同じ作者たち ビアンカ・スティグターとスティーヴ・マックイーンの夫婦 によって製作されるべきである。いや、第2部が製作されないなら、『占領都市』には歴史的価値はあっても、道義的価値はない。 【著者プロフィール:荻野洋一】 映画評論家/番組等の構成演出。早稲田大学政経学部卒。映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」で評論デビュー。「キネマ旬報」「リアルサウンド」「現代ビジネス」「NOBODY」「boid マガジン」「映画芸術」などの媒体で映画評を寄稿する。7月末に初の単著『ばらばらとなりし花びらの欠片に捧ぐ』(リトルモア刊)を上梓。この本はなんと600ページ超の大冊となった。
荻野洋一