『占領都市』を起点にひも解くエンプティショットの映画史。ホロコーストをテーマにしたドキュメンタリー作品を考察レビュー
レトリックによって不在を創出するエンプティショットの映画
1点目は、『占領都市』がおびただしい量のナレーションによって支えられている点。アトランダムに思えたカットとカットの関係は、ナレーションによって異論の余地なく接着させられている。ナレーションは、いま写っている場所がナチスドイツによる占領期にはどういう場所であったか――たとえばここは戦前にはユダヤ系住民が集まるレストランだったが、ナチスによってユダヤ人入店禁止となった、など――を説明し、意味という意味を過剰に付加していく。そのナレーションはあえて事務的、自動筆記的だ。 まず「××通り×番地」と住所が告げられ、そのあとにこの場所に関連したナチスによるユダヤ人迫害とジェノサイドをめぐる情報付加が施される。シーンの締めくくりとして「Demolished」(破壊、取り壊し、解体、撤去、廃止という意味)という一語が句読点として添えられる。まず意味がどっさりと付加され、そのあとにそれの削除がある。 2点目は、『占領都市』が現代オランダの首都の表情を豊かに切り取りながらも、実情としてはすでに喪失し、不在となったユダヤ系住民の存在、生の営み、迫害の記録/記憶が、不透明な透かし紋様として刻まれている点である。この作品では、いま写っている場所や地区に存在したかつてのユダヤ人たちの姿を、たとえ写真によってさえも重ね合わせようとしない。 現代の平和なアムステルダム、民主的なアムステルダム、環境保全主義者たちや反ファシズム集会のデモ会場としてのアムステルダムを写しながらも、それはそこに写っていないものを透かし出すためのショットなのである。一方、フレデリック・ワイズマンはそのようなレトリックをまったく使用しないだろう。『占領都市』はレトリックによって不在を創出するエンプティショットの映画だと規定することができる。
マルグリット・デュラス作品との近接性
『夜と霧』がジャン・ケイヨールのテクスト性に依った作品だったのと同様に、『占領都市』にもプレテクストが存在し、そのテクスト性が作品の最前線に陣取っている。オランダの歴史家、文化批評家ビアンカ・スティグターが2019年に上梓した『Atlas of an Occupied City (Amsterdam 1940-1945)』(アトラス・コンタクト社刊)のテクストである。 『夜と霧』が収容所のエンプティショットを生々しく撮影し、比較的にダイレクトな作品であるのに対し、『占領都市』は豊饒なる現代都市の相貌を写し出すことによって、事の本質の喪失ぶりをきわだたせている点では、『夜と霧』というよりはむしろ、マルグリット・デュラスの『インディア・ソング』(1975)とその事後的な不在を強調した『ヴェネツィア時代の彼女の名前』(1976)を同時映写するかのような体験としてしつらえられている。 テクストの作者ビアンカ・スティグターの夫であり、現代イギリスを代表する映画作家であるスティーヴ・マックイーンが本作の監督を務める。マックイーンはマイケル・ファスベンダー主演の長編デビュー作『ハンガー』(2008)でカンヌ国際映画祭カメラ・ドール(新人監督賞)を受賞し、『それでも夜は明ける』(2013)は米アカデミー賞の作品賞・助演女優賞・脚色賞の3部門を受賞した黒人作家である。シアーシャ・ローナン主演による彼の劇映画の最新作『ブリッツ ロンドン大空襲』(2024)はApple Original Filmとして製作され、配信開始されたばかりである。 アムステルダムの名所の数々。戦前は裕福なユダヤ人たちが利用した有名なレストラン「リド」。ナチスとの関係性が戦後に暗い影を落としたライクスムーセウム(国立美術館)とコンセルトヘボウ(交響楽団の劇場)。アンネ・フランクが日記に書いた、ユダヤ人にも入店が許されたアイスクリーム店「デルフィ」。有名無名の場所が写し出され、そこに被さるビアンカ・スティグターのテクストによって隠された黒歴史が明らかにされ、穏やかな都市の映像を裏切っていく。 オーステルスポール広場からマウデルポールト駅へ。この駅からは1942年10月以降、1万1000人以上が収容所に送還された。ヴェステルボルク通過収容所を経由して、アウシュヴィッツやソビボルといったホロコーストの実施会場へと歴史がつながる。