戦艦武蔵は最強の艦だったのか?技師や乗組員らが語る実像(2)「武蔵」進水そして竣工へ
超弩級戦艦「武蔵」。この船を建造した造船所がある長崎市の人にとってその名前には兵器であることを超越した特別な響きがあります。そして2024年は「武蔵」が沈没して80年の年でした。空前絶後の武装と防御を備え”不沈艦”と呼ばれた武蔵は何故、何の戦果も挙げることなくあえなく沈没してしまったのか?NBCでは1995年、元乗組員や日本海軍の幹部、そして造船部門のキーマンとされる人たちを取材して「武蔵」とは?そして、その意外な”弱点”を取材し放送していました。その後の取材結果も加えて沈没から80年の年、改めて戦艦「武蔵」に迫ります。 【写真を見る】戦艦武蔵は最強の艦だったのか?技師や乗組員らが語る実像(2)「武蔵」進水そして竣工へ 戦艦「武蔵」が建造されたのは三菱重工業長崎造船所の第二船台。この造船所には銀色に輝く戦艦「武蔵」の模型が残されている。2年半を要して精密に再現された200分の1の銀製模型には、この造船所の戦艦「武蔵」に対する深い思いが込められていた。 「武蔵」建造は極秘の中で行われた。また、これだけの大型船の船台進水(斜面を滑り降りるようにして行う進水)は、世界的にもあまり例がなかった。三菱重工業の記録によれば進水時には写真班、撮影班が配置され進水の状況は映像で克明に記録された。映画フィルムは標準型が1600フィート、16ミリフィルムで600フィートに及んだというが、これらの資料は戦後焼却されたとされており今見ることはできない。「武蔵」が進水した時に長崎港ではちょっとした異変が起きていた。「武蔵」が海中に進入した時に起きた波で港内には水位の異常上昇がみられ、対岸の街では床上浸水の被害が出た。極秘で行われた「武蔵」の進水、この異変は巨艦進水のことを知らなかった住民を驚かせたという。 「武蔵」という名前は進水式の際につけられているが、工事関係者や海軍の乗組員は進水後も「二号艦」と呼んでいた。一号艦が「大和」で二号艦が「武蔵」。そう呼ばれたのには軍事機密秘匿の意味もあるが、更なる”隠語”も存在していた。建造中から武蔵に携わった元海軍士官原口静彦さんによれば戦艦「武蔵」の艤装に携わっていた部隊は「有馬事務所」と呼ばれていた。