戦艦武蔵は最強の艦だったのか?技師や乗組員らが語る実像(2)「武蔵」進水そして竣工へ
「有馬」とは「武蔵」の初代艦長になる有馬馨大佐のことで当時艤装員長。三菱長崎造船所に出入りしていた艤装員たちは戦艦の乗組員ではなく”事務所勤め”を装っていたという。 ■長崎→佐世保→長崎→呉へ 「武蔵」は建造中に3回引越しをしている。1回目は進水から8か月後の1941年7月、曳船にひかれて佐世保へ移動している。佐世保海軍工廠のドックで推進器の取り付けや主砲の芯出し検査などが行われた。そして1か月後の同年8月。2回目の引っ越しで再び三菱重工業長崎造船所へ。ここで兵器の搭載を終えて1942年5月に広島県の呉へ。呉で最終的な仕上げを終えて1942年8月5日海軍に引き渡された。太平洋戦争開戦後で日本海軍は2カ月前のミッドウェー海戦で主力空母4隻を失い戦局には暗雲が立ち込めていた。海戦の主役は戦艦から航空機へ。「武蔵」は登場した時、すでに活躍の場を奪われていた。(NBC長崎放送 長征爾)
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