「健常者」と「障がい者」のあいだにある「溝」をどう埋める? 現実に打ちのめされると同時に湧く、社会と自分自身への「怒り」
問いを重ねるにつれて浮かび上がる数々の「溝」
健常者と障害者。それはくっきりと分かれている世界なのか。突発性難聴や骨折などで一時的に身体が不自由になることがある。その時に、世の中がどれだけ「普通の人」にだけ優しく作られているか痛感する。「私たち普通の人」に便利な世界は「普通じゃない人」を区切って切り捨てていく。でも障害のあるなしって誰がどうやって区切っているのだろう。 視覚障害は「人と物」の間を隔てる障害で、聴覚障害は「人と人」の間を隔てる障害だという。生まれたときから聞こえない人と、途中で聞こえなくなった人、そして聞こえる人。その間にある溝を超えることはできるのだろうか。そもそもその溝とはいったいなんなんだろうか。 コーダ(チルドレン・オブ・デフ・アダルト)の父を持つ作家のつばめが、日本ではじめてのろう理容師だと聞いた祖父のことを小説に書こうと奮闘する姿。それは自分自身を、自分の存在自体をバラバラに解体し、そして一から組み立てる作業でもあった。 つばめの周りにはたくさんの溝がある。父との、伯母との、そして祖母との。その溝を超えるために小説を書きたい、というその思いがどれほど傲慢であったか。それを「傲慢だ」と気付きさえしなかったつばめと一緒に、読者も打ちのめされていくだろう。 祖父のことをなぜ書くのか。何のために書くのか。その問いへの答えを求めて読者はつばめと一緒に歩き続ける。 耳の聞こえない祖父母を持つ自分、もし歯車がひとつずれていたら存在しなかったかもしれない自分、それを小説に書こうとする自分。心の奥深くまでもぐりこんで自分自身を見つめる作業は、とてつもなく苦しい。見たくないものを見る、知りたくないことを知る。そういう作業の上に、「私たちのことを知って欲しい、誰かに伝えて欲しい」という人たちの声をつばめは積み重ねていく。 祖母の語る過去の話。それを読みながら少しずつ私の肩にも力が入っていく。それは怒りから生まれたものであった。その怒りは、当時の社会に対してだけではなく自分の中にもある「差別」に向かっていることに気付く。幼いつばめが祖母に対して持っていた感情。障害を持つ人への、自分とは違う人への潜在的恐怖心。それは今、自分の中にも間違いなくある。そのことを突きつけられてひるむ自分にまた、怒りは向かっていく。