43歳という異例の若さで大学学長に就任し1年足らずで辞任したことを、ハイデガーは本当はどう反省していたか
ハイデガーとナチズムの「思想的対決」
しかし周知のとおり、ハイデガーの試みはすぐに行き詰まり、就任後、わずか1年足らずで学長職を辞任した。彼はのちになって、ナチスの政権奪取という歴史的瞬間をあまりにも短絡的に自分の哲学に引き付け、西洋の精神的覚醒のチャンスと安易に捉えてしまった性急さのうちに、自身の「誤り」を見て取っている。 哲学的思索は「一撃」で実現できるようなものではなく、もっと「長いとき」を必要とするが、1933年にはそのことが理解できていなかった、そう反省したのである。 ここで注意しなければならないのは、ハイデガーは自身のナチス加担の「誤り」は認めるが、それはあくまでも自身の「性急さ」によるものであり、自身の思索そのものに問題があったとは考えていない点である。実際、彼は学長辞任後、それまでの立場を変えるどころか、むしろ同じ立場に基づいて、ナチズムの貧弱な哲学的基礎を批判するようになってゆく。 こうしたナチズムとの思想的対決の根拠となったのが、まさしく彼の「存在の思索」に基づく「フォルク」概念なのである。ハイデガーは自身の「フォルク」概念に依拠して、ナチズムの人種主義イデオロギーを徹底的に解体しようとしたのである。 それゆえ、もしわれわれがハイデガーのナチス加担を理由として、彼の思想的業績をすべて否定してしまうと、皮肉なことだが、そのことによってナチズムの弱点を根本から剔抉する思想的立場もまた手放すことになるのである。しかもハイデガーによると、ナチズムはドイツにおけるある一時期の特異な事象などではなく、むしろ近代的主体性、西洋の合理主義の究極的な帰結と見なされるべきものなのである。 この見方に従えば、「ナチズム的なもの」はわれわれの社会を今なお暗黙のうちに規定していることになる。彼の思索を否定するということは、現代社会に潜む「ナチズム的なもの」を見過ごし、さらには助長してしまう危険に晒されたままになるということを意味するのである。 *
轟 孝夫(防衛大学校教授)