じつは「戦果」が目的ではなかった…「特攻」を強行した大西瀧治郎中将の意外な「真意」
特攻隊員を特攻以外の戦で死なせない
ある日、要務士の大尉がやってきて、角田以下3機で、モロタイ島の敵飛行場を強行偵察してこい、との命令を伝えてきたことがある。角田は、このときばかりははっきりと拒否した。 「特攻隊員を特攻以外の戦で死なせたくはありません。この任務はほかの人に代わってもらってください」 ダバオには、漆山大尉以下10数名の搭乗員がいたが、特攻隊として編成されていない彼らは、角田隊の出撃を横目に、毎日宿舎で花札やトランプ遊びをしている。それを知った上での、精いっぱいの抵抗だった。 要務士はぶつぶついいながら帰っていき、この任務はダバオにいたベテランの澤田万吉少尉が単機であたることになった。 「私は特攻指名されてからは、特攻以外で死ぬのはいやでした。というのは、賜金が違うんですよ。特攻で戦死して二階級進級して、功三級の金鵄勲章をもらうと、当時の金で2万円か3万円もらえる。それから、遺族手当てとかなにかを入れると、女房は家も作れるし、子供も学校に入れて十分に生活していけるな、と思っていました。通常の戦死で一階級の進級だと、金鵄勲章も功五級まで。もらえる金額が全然違ってくるんです。 戦後、生き残った若い隊員にその話をすると、『いやあ、分隊士がそんなことまで考えてるとは思わなかった』なんて言われますけどね」
かろうじて離陸に成功
この前年の昭和18年、ラバウルの五八二空時代に庶務主任だった守屋清主計大尉が私に語ったところによると、角田は書類上、いつ戦死しても二階級進級するだけの勲功が溜まっていたというが、本人は当時、そんなことを知る由もなかったのだ。 12月も半ばに差しかかると、レイテ島の戦況はほぼ決定的になり、角田たちが特攻出撃を命ぜられることはめっきり減った。ダバオでは食糧事情がいよいよ逼迫し、来た当初こそ握り飯が出たが、この頃になると兵舎ではさつま芋と塩汁ぐらいしか口に入らなくなっている。腹が減って仕方がないので、ヤモリやトカゲまで追いかけて食う始末だった。 12月27日、角田たち3名の特攻隊員に、〈飛行機は現地に残し、搭乗員はマバラカットの本隊に帰れ〉との命令が出た。夜間、2機の一式陸攻がダバオ西部のデゴス飛行場に迎えにくる。角田たちがその一番機、どこにいたのか艦爆の搭乗員たちが二番機に乗り込む。飛行場は狭く、滑走路の先には椰子林が立ちふさがる。角田たちの乗った一番機はかろうじて離陸に成功したが、二番機は離陸できず、椰子林に衝突、炎上してしまった。 約1ヵ月におよぶ角田たちのダバオ基地での出撃記録は、米軍との戦いの渦中で失われたか、終戦時に焼却されたものか、現在防衛省防衛研究所にも資料が残っていない。