江川卓の才能に慄いた不動の遊撃手・水谷新太郎 ヤクルト初の日本一もかすんだ「空白の一日」
【力投タイプじゃない速球派】 プロの、しかも一軍でバリバリのレギュラーとしてやっている選手が、高めのボール球にどうして手が出てしまうのか。聞かずにはいられなかった。 「物理上、ホップしてくるってことはないんですけど、やっぱりそういうふうに感じるんですよね。目つけしていたところに『来たっ』と思って振るのですが、そこから浮き上がってくる。力投タイプでもなく、テイクバックも小さくてヒョイって感じで投げるのに、ボールはグワッーとどんどん加速してくる。あの当時、速いピッチャーはけっこういましたけど、また違うタイプのピッチャーでした」 目線が近いだけに、高めのボールはバッターにとってストロングポイントになりやすいそれでも江川は、バッターが振ってきそうな高めの球を投げ、空振りをとることが快感だったと公言している。まさにセオリー無視のピッチングである。 江川が全盛期だった1980年代前半の巨人は、ヤクルトをお得意さんにしていた。それについて水谷は次のように語る。 「ヤクルトは78年に優勝し、翌年、広岡監督がシーズン途中で辞めてから、元の弱いヤクルトに逆戻りでしたね。80年代前半だけでなく、巨人はいつも強いイメージですよ。江川卓、西本聖、定岡正二の三本柱がいましたし。西本は、球はそんなに速くなかったんですけど、シュートがよかった。ちょっとシンカー気味に落ちるんですよね」 80年代前半のヤクルトはまさに暗黒時代で、巨人にカモにされていた。さらに天敵・江川は、水谷にとっても目の上のたんこぶだった。 (文中敬称略) つづく>> 江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している
松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin