江川卓の才能に慄いた不動の遊撃手・水谷新太郎 ヤクルト初の日本一もかすんだ「空白の一日」
水谷は1971年に三重高からヤクルトアトムズ(現・スワローズ)にドラフト9位で指名され入団。74年に三原脩に代わり荒川博が監督に就任すると、広岡達朗、小森光生、沼澤康一郎をコーチに招聘。なかでも水谷は、広岡にとことん鍛えられた。 1976年にレギュラーを奪うと、80年代中盤までヤクルトの正遊撃手として活躍し、90年に現役を引退した。今でも伝説として語られる1978年の日本一は、レギュラーとして貢献した。 【日本一もかすんだ『空白の一日』】 そしてそのオフ、プロ野球界に未曾有の問題が勃発した。それがドラフト前日に巨人と江川が電撃的な入団契約を結んだ『空白の一日』である。 チーム創設29年目にして初のリーグ優勝、そして日本一に輝いたヤクルトだったが、オフの話題は"江川一色"となった。水谷が回想する。 「一選手として、『こんなことできるんだ』って感じで見ていました。それだけすごいピッチャーだったということでしょう。江川の1年目の6月に対戦していますが、デビュー時の球はやっぱり速かったですよ」 1979年6月21日、神宮球場でのヤクルト対巨人戦で江川は先発し3回2/3を4失点。プロ入り初のKOを食らった試合で、水谷は2番・ショートでスタメン出場している。 「江川との通算打率は2割5分くらいだったかな。全然たいしたことないんだけど、それでも4打席に1本は打っている。だけど、打てなかった印象しかないんですよね」 水谷は引き締まった顔つきで、苦々しく話した。 「江川のフォームは力感がないのに、パッとくるんですよ。高めの球で勝負してくるんだけど、とにかく速かった」 水谷は2割5分も打っている印象がないほど、高めの速い真っすぐでやられた記憶が強い。 「チームとして攻略法はあまりなかったですね。ミーティングも、球が速いことと、球種はストレートとカーブの二種類しかないっていうような確認事項だけ。カーブもよかったですよ。本人に聞いたら、カーブも投げ分けていたと。勝負するカーブとカウントをとるカーブがあったから、2つの球種でも抑えられたんですよね。基本、ストレートは低めに投げろって言うじゃないですか。でも彼は高めで勝負し、バッターにとってはボール球ってわかっているんですけど手が出ちゃうんですよ」